作家寄席集め 第41回 小沢 昭一/恩田雅和
存在感ある個性派の映画俳優だった小沢昭一(1929~2012)は、芸能史研究者であり、また変哲という俳号を持つ俳人でもありました。
東京生まれの小沢は早稲田大学在学中に寄席を主に研究する「庶民文化研究会」を創設し、後の映画監督今村昌平や同業となる加藤武らとともに演劇活動に勤しみました。
卒業後、俳優座公演で初舞台を踏み、以降舞台のほか映画、テレビ、ラジオの各メディアで活躍、殊に可愛がられた川島雄三監督による「幕末太陽伝」「洲崎パラダイス赤信号」、盟友今村昌平監督とのコンビを組んだ「人類学入門」「楢山節考」などの映画で個性的な存在感あふれる演技をみせました。
一方で三河万歳、越後の瞽女、山口県の猿回しなど各地の放浪芸を尋ね歩き、『日本の放浪芸』など芸能史の研究書をいくつか書き残しました。あわせて『道楽三昧』『小沢昭一がめぐる寄席の世界』など落語、寄席に関する随筆集も刊行していて、「寄席と私」についての記述も残しました。
それによりますと、小沢が育った東京の蒲田に御園会館という寄席があり、子供の頃そこに通って十代目桂文治の父親の柳家蝠丸が「生で聞いた最初の落語家」でした。麻布中学生になると、銀座の金春という寄席に通い出し、勤労動員仲間を楽しませるためそこで「ネタを仕入れ」ていたそうです。戦後すぐ上野の焼け跡に、「二十人ばかりしか入れないような葦簀張りの仮設の鈴本ができ」、そこに通いました。「落語のおかげで、挫折感みたいなものなしに、戦後を生きることができた。」と小沢はしみじみ回想しています。
昭和40年代の中頃、玄人はだしの俳句を発表していた入船亭扇橋を宗匠に、「東京やなぎ句会」が発足。柳家小三治、桂米朝、永六輔、加藤武(のちに参加)、それに小沢らそうそうたるメンバーが毎月1回集まる句会が始まりました。小沢は30数年間ほぼ無欠席で句会に顔を出し、変哲という俳号で作句に精励して、『変哲句集』『俳句で綴る変哲半世紀』などの句集にまとめました。「自分を培ってくれた寄席」などと故郷のように寄席を慕った小沢は、落語家を詠み込んだ句をそこにたくさん残しています。
「耳に志ん生口に塩豆年惜しむ」「鮟鱇や金馬の口も大きくて」「小さんらしきラジオ聞こえて春炬燵」「円鏡のラジオやせわし年用意」等々。