作家寄席集め 第38回 深沢 七郎/恩田雅和
口減らしのため老人を山に捨てるという姨捨伝説を取り扱った小説『楢山節考』の作者深沢七郎(1914~1987)は、かつてはギタリストであり、作詩作曲活動もした音楽家でありました。
信州の寒村に伝わる70歳になると楢山まいりに行くという衝撃的な姥捨てをテーマにした『楢山節考』は、亭主を亡くした69歳のおりんが一人息子の辰平と楢山まいりを目前にして振る舞う様子と心の揺れを描いた佳作です。おりんらの会話は土地の方言でやりとりされますが、この小説のポイントは「楢山祭りが三度来りゃよ 栗の種から花が咲く」など楢山節の歌が作品中に繰り返し挿入されていることです。小説の最後に、「作詞作曲 深沢七郎」と記入された5連の歌と楽譜による「楢山節」が添付されています。これで分かるように、作品中の歌は伝承のように見せかけたすべて作者の創作によるものでした。
1969年深沢自身が書いた略年譜によりますと、山梨県の旧制日川中学生の頃より好んでギターを弾き、1939年に第1回のクラッシック・ギター・リサイタルを丸ノ内明治生命講堂で開きました。戦後の1954年、桃原青二の芸名で日劇ミュージック・ホールの正月から5月末まで、さらに秋の公演と各特別出演しました。そしてその2年後、『楢山節考』を書き上げて中央公論に応募、第1回の中央公論新人賞を受賞しました。つまり深沢にとってはギタリストとしての活動が先で、小説の執筆は音楽活動の延長上にありました。
中央公論新人賞を受けた翌年の1957年頃、深沢は業界誌に、「落語のようなオチもないし、コントより違うものを書きたいと、『ポルカ』という名で、小さな軽いものをとりまぜ」た連作集を連載しました。「落語風ポルカ」「講談風ポルカ」「浪曲風ポルカ」など演芸ジャンルが強く意識された15のポルカの連作で、落語風は、「エー、只今はこんなことはございませんが」と、落語家口調で文体が開始されています。
その後、1970年の雑誌に「お笑い強要寄席」と題して、「エー、軽いところでお伺いイタシマス。」と始まり、芸人がお客に拍手を強要する風潮にくぎを刺すエッセイも発表していました。すでに『笛吹川』、『甲州子守唄』など文学性の薫り高い長編小説を書いていた深沢でしたが、同じ舞台に立つタレントとしての一面も残していた作家であったようです。