手塚治虫

作家寄席集め 第37回 手塚 治虫/恩田雅和

漫画の第一人者で「鉄腕アトム」をはじめとしたテレビアニメの開拓者でもあった手塚治虫(1928~1989)は、医学生の頃に二代目桂春団治と交流があり、寄席のポスターも描いていました。

二代目春団治の長男で弟子の三代目春団治が2016年1月に亡くなった際、遺品から見つかったもので、現・四代目春団治(前・桂春之輔)からそのコピーを私も繁昌亭でみせてもらったことがありました。

手塚の自伝『ぼくはマンガ家』(1969年毎日新聞社)に、二代目と交わった経緯が述べられています。「うちの近所に先代の桂春団治の家があった。大阪落語の重鎮である。この師匠にたのまれて、戦争直後、戎橋小劇場という寄席のポスターを描いた。描きあげたポスターを春団治師匠の家へ届けたら、弟子らしい若い者が、真っ裸になった師匠の腰をしきりに揉んでいる。師匠は、ポスターのお礼のつもりもあってか、急にぼくの声を賞めだした。『手塚さん、ええ声をしてなはるやないか。よう通るし、スジがええ』『そうですか』弟子が、じろりとぼくを睨んだ。『噺家になっても充分使える声や、どうです、その気イならやってみなさらんか』『はあ……考えてみます』弟子が、また睨んだ。」

その頃、宝塚市清荒神に住んでいた二代目は、近所づきあいしていた手塚に弟子入りを勧めていたのが驚きです。現・春団治によりますと、二代目の腰を揉んでいた若い者は三代目春団治に間違いないとのことで、何度も手塚を睨んだのは彼が自分の弟弟子になるかもという目つきだったのかもしれません。

戎橋小劇場は、1947年9月に開場した戎橋松竹と思われ、このこけら落とし公演に二代目は出演していて、三代目が正式に入門したのはその年の4月で、すでに桂小春と名のっていました。一方、1945年に大阪大学附属医学専門部に入学した手塚はこの時3回生で、春団治に「賞められて悪い気の起こるはずはなく、もともと声に自信もあったから、こっそり落語の勉強を始めた。」そうです。そこで「居酒屋」「ずっこけ」を覚え、漫画家になってからも、記録用に自身演ずる「厩火事」をテープに吹き込んだりもして落語への関心を持ち続けていました。

なお、寄席のポスター原画は、「いけだ春団治まつり」を主宰する池田市のいけだ市民文化振興財団に保管されています。


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