「繁昌亭」支配人による連載/恩田 雅和
東洋のルソーと評された、明治の自由民権運動家の中江兆民(1847~1901)は、文楽、歌舞伎をはじめとした日本の古典芸能をこよなく愛した通人でもありました。
幕末、高知城下の足軽の身分に生まれた兆民は、藩校で学んで長崎に赴き、同郷の坂本龍馬の使い走りなどしました。その後、江戸に移ってフランス語を習得、大久保利通の周旋でフランス留学を果たしました。帰国後ジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』の漢訳をし、衆議院議員を経て、自由民権を広めるジャーナリスト活動を続けました。
兆民の代表的な著作『三酔人経綸問答』(1887年)は自由民権の理論化を図ろうとしたもので、タイトル通り3人の酔っぱらい、洋学紳士と豪傑君それに調停役の南海先生が自由に議論を展開しています。本文は漢語が主体で難解ですが、桑原武夫・島田虔次両氏による訳注のある岩波文庫版は比較的分かりやすく読むことができます。
その内容を要約した章立ての見出し短文は、「南海先生は現実世界の地理をご存知ない」「ああ、うらやましい。ああ、気の毒な」などユニークでユーモラスです。その見出しの一つに、「八公熊公のために一丈以上の大気焔を吐く」があります。八公、熊公というのは、八五郎、熊五郎の名の江戸落語における典型的な登場人物です。これにご隠居または大家という物知りが顔を出し、八公、熊公とあわせて3、4人の会話でストーリーを進めるのが落語のおおよそのパターンですが、兆民は三酔人を明らかにこの落語の登場人物になぞらえていたことが考えられます。
晩年、旅先の大阪で兆民は喉頭がんを患い、余命1年半の診断を受けます。そこで身辺雑記風な『一年有半』(1901年)の執筆を開始し、出版するとたちまちにベストセラーとなりました。大阪に来たのは「文楽座義太夫の極て面白き」ためだったことや、「講談落語の名文」例として「如燕、伯円、円朝、柳桜の口頭の文」などと文中で綴られています。これら講談師の桃川如燕、松林伯円、落語家の三遊亭円朝、春錦亭柳桜の4人は、この本の後半で「近代非凡人三十一人」として坂本龍馬、大久保利通らと並んで選ばれていて、兆民が明治中期においていかに芸人たちをも重くみていたかの証左であります。