丸谷才一

作家寄席集め 第40回 丸谷 才一/恩田雅和

深い教養に裏付けられ、知的探求心あふれる小説を発表した丸谷才一(1925~2012)は、「落語の語り口」と評される文体を駆使した作家でした。

山形県鶴岡市に生まれ、旧制新潟高校を経て東京大学英文科に学んだ丸谷は、ジェイムズ・ジョイスを研究、國學院大学助教授を務めるなど英文学者でもありました。

大学を退職した直後に書いた長編『笹まくら』(1966年)は、丸谷の代表作の一つです。徴兵忌避した浜田が名前を替えて砂絵師に身をやつし、地方の小さな町を転々と生き延び、戦後本名に戻して大学職員の仕事を得ますが、勤め先で過去が噂にのぼり、居場所を危うくさせるというサスペンス調の小説です。

浜田と敵対するのが南方から復員した同僚の西で、浜田の噂を広げつつ一人うつうつと戦場での辛い体験をぼやく場面があります。「考えてみるてえと、兵隊というのはずいぶんいろいろ下らないことができなくちゃいけない商売だね。まず、員数をつけるための泥棒。班長の機嫌をとるための洗濯屋。」などと落語家口調のモノローグが長く続きます。それもそのはずで西は、職場の女性に「艶笑落語を聞きにゆこう」と誘うほどの落語好きの一面を持っていました。

サスペンス調というと、漂泊の俳人種田山頭火の足跡を追った『横しぐれ』(1974年)も挙げねばなりません。

主人公「わたし」の父と恩師が昭和14年に四国松山に旅行した際、茶店で話し上手な坊さんに会い、3人で酒を酌み交わしているうちに横しぐれという言葉が出て、坊さんはこの言葉にいたく感心して姿を消します。恩師が言うには、この坊さんは「とにかく恐ろしい芸達者。ちょっと泥くさいんですがね。まあ、それは仕方がない。言ってみれば旅まわりの芸人ですもの。小さんや小勝とくらべては可哀そうでしょう」と、当時の柳家小さん、三升家小勝を引き合いに出します。この後「わたし」は坊さんが山頭火だったに違いないと思い定め、山頭火の自由律俳句を横しぐれで詮索、結果的に父が松山に旅した意外な理由にゆきあたります。

このように深く幅広い教養と知性に基づいて書かれた小説にも、落語や落語家がところどころにひょっこり顔をのぞかせているのが興味深いところです。

作家の半藤一利は、丸谷のエッセイ傑作選の文庫解説で落とし所を心得た丸谷の文章について、「その面白さは、うんと誉めていうならば、磨きぬかれた落語の語り口と同じということになろう」と述べていました。


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