水原秋櫻子


作家寄席集め 第4回 水原秋櫻子/恩田雅和

「寄席の灯のともりあはせぬ盆の市」。水原秋櫻子しゅうおうし(1892~1981)が、昭和8(1933)年12月に刊行した句集『新樹』に収めた句です。

水原秋櫻子

高浜虚子門で阿波野青畝、高野素十、山口誓子とともに四Sと呼ばれた高弟、水原秋櫻子は、東京帝国大学医学部を卒業した医師でもありました。『水原秋櫻子自選自解句集』の年譜によると、血清化学を専攻、大正13年「臨床医学を勉強するため、産婦人科教室に移った。忙しい中でも、俳句の方にも時間を使うことが多くなった」と記されています。

そんな秋櫻子は一高の寄宿寮に居た頃は、芝居や落語の方に関心が向いていました。「夕飯が済むと本郷通りへ出て行って、本郷座の立ち見をするか、若竹亭の落語をきいた。本郷座には左団次一座の出演することが多く、岡本綺堂の新作を多く上演した」「落語の方は、円喬、小さん、円右など、近代で名人と言われる芸人がそろっていたから面白かった」(「私の履歴書」昭和38年8月)。明治の巨匠の四代目橘家円喬、昭和初めまで活躍した三代目柳家小さん、大正末に三遊亭円朝を襲名する話まで出た逸材、初代三遊亭円右らの名人上手を直に聞いていた秋櫻子は、良き学生時代を送っていたようです。

昭和3年、昭和医学専門学校(現・昭和大学)の教授に招請されて就任、家業の病院経営を引き継ぎながらのことだけに、多忙を極めました。それが、昭和20年4月「空襲によって病院も住宅も焼失したので、八王子市に移」って俳句に専心、昭和29年の句集『帰心』で、「湯婆や忘じてとほき醫師の業」と詠みました。

昭和31年新居に移ったため、「八王子時代にはほとんどしなかった劇場通いも復活」、昭和33年「明治座新国劇「荒神山」を上演す」の前書きで「薫風やむかし伯山の張扇」を作句しました。講談の神田伯山が十八番の次郎長伝「荒神山」を基にした芝居を観ての句で、『自選自解句集』では「私は、はじめ市村座の独演会で、伯山の次郎長伝をきいた。三時間ほどの長講であった。それが面白かったので、その後浅草の金車亭へも二、三回かよったことがある。初夏の寄席の前に、夕方水を打ってあったのが、すがすがしい感じとして思い出される」と述べています。また昭和44年2月の句集『殉教』に「こほろぎや寄席の楽屋の独り酒」、昭和46年9月の句集『緑雲』には「ふるき寄席閉づる噂や恵比須講」の句もありました。晩年に至っても秋櫻子には、芝居、落語、講談は学生時分に親しんだものと地続きになっていた模様です。

ところで、今から3年前の7月、84歳で鬼籍に入った落語家に入船亭扇橋がいました。彼は人情噺に定評があって端正な芸が謳われていましたが、実は光石という俳号を持つ俳人でもありました。俳界でよく知られていたのは、昭和44年から永六輔、小沢昭一、桂米朝、柳家小三治ら玄人はだしの仲間を集めて「東京やなぎ句会」を主宰、宗匠を務めていたことでした。

その扇橋は中学生の頃から俳句をたしなみ、当時秋櫻子が選者の毎日新聞俳壇に5句ずつ投句、秋櫻子主宰の「馬酔木」例会にも足を運んでいました。「あたしの名前は先生に覚えられてたみたいで『この子は末恐ろしい人で、毎日うちへ五句ずつ投稿してくる』って紹介されちゃった。この時、賞に入ったりなんかしたんで、またまた俳句に夢中になっちゃってました」(『噺家渡世 扇橋百景』平成19年7月)。

俳人秋櫻子は、俳句少年に大きな影響を与えていたばかりか、後の「東京やなぎ句会」というユニークな運座にまでつながっていました。

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