小松左京(後編)

作家寄席集め 第24回 小松左京(後編)/恩田雅和

56年前に出版されたSF長編小説『復活の日』で、現今の新型コロナウイルス感染拡大によるパンデミックをすでに小松左京(1931~2011)は予告していました。

第三高等学校に通っていた時、小松は京都にあった寄席「富貴亭」を知り、出入りしだしました。「寄席にこった私は、その頃、『落語全集』全巻を読みかけていた。」(『やぶれかぶれ青春記』)というのですから、実際の高座を見ていたほか活字になった落語も目にして、演目まで頭に入れていたことが想像されます。落語への造詣をこうして深めたことが、当時小松が漫画家として活動した支えにもなっていたようです。

「ひどい金欠に陥った三高時代に、一冊のストーリー漫画を描き上げ、ダメで元々と期待せずに大阪・ミナミの不二書房に持ち込んだら、現金買い取りで何と三千数百円で売れて狂喜乱舞した。」(『小松左京自伝』)と、小松自身回想しています。

『やぶれかぶれ青春記』新潮文庫版の解説を担当している小松の次男の小松実盛さんによりますと、小松は京都大学進学後も漫画を描き続けていて、後の『日本沈没』とも関わるテーマの作品を発表していました。確実にSF作家小松左京の萌芽がこの頃にみられるということで、落語から漫画そして文学へと京都で学生生活を送ったことが小松の大きな下地になったようです。

よく知られているように、小松は1970年の大阪万博でテーマ館のサブプロデュサーを務め、自然科学の知見を遺憾なく発揮して、後世に残る一大イベントを盛り上げました。

そんな有名になる以前、作家活動を始めたばかりの二十代後半に小松は、ラジオ大阪の番組で夢路いとし・喜味こいしによるニュース漫才の台本作成に携わりました。年譜では、足かけ4年、1万2千枚の台本原稿を書いたということです。これが1964年10月、『復活の日』刊行2カ月後に同じラジオ大阪で開始された「題名のない番組」につながります。毎週1回、桂米朝と小松それに女性アナウンサーとの3人でリスナーから寄せられたハガキをもとにフリートークする内容で、4年半にわたって小松は米朝と仕事を続けました。

1975年11月、小松は「天神山縁糸苧環(てんじんやまえにしのおだまき)」という、複数の落語を題材にした短編小説を文芸雑誌に発表しました。小松自身がモデルとみられる作家、大杉が桂文都、小文の師弟競演の落語会をのぞきにいく話で、小文が「天神山」、文都が「立ち切れ」の大ネタをそれぞれ演じ、大杉は二人の高座の様子を思い入れたっぷりに語ります。

「文都さんという人は、戦後上方古典の発掘にすでに大功あった人で、ネタ数も多く、むろん、大真打ちだから何をやらしてもうまいのだが、特にこの話の親旦那さんのような、老けの実役を演ずる時が実にいい。」

ここで評されている文都は、どうみても桂米朝としか考えられません。そうすると弟子の小文は、一門の数ある弟子の中の桂枝雀が念頭にあったのでしょうか。いずれにしろ、米朝本人と弟子たちとも親しく交わった小松ならではの作品といえます。

桂文都が登場するもう一つの短編「乗合船夢幻通路(のりあいぶねゆめのかよいじ)」は、翌1976年3月に書かれました。タイトル通り古典の名作「三十石夢の通い路」がモチーフとなり、ここでも作家大杉や米朝の付き人、放送局ディレクターなどが賑やかに出てきますが、彼らがなんと宝船の七福神に見立てられるおめでたい趣向です。学生時代に寄席に通い、落語全集にも目を通していたことが、ここに結実していました。


ページ上部へ戻る