鍋井克之

作家寄席集め 第21回 鍋井克之/恩田雅和

大阪市出身で戦後の関西画壇を長らくけん引した洋画家の鍋井克之(1888~1969) の没後50年コレクション展が、昨年12月から今年2月にかけて大阪市立美術館で開催されました。

鍋井作品といえば、JR天王寺駅コンコースの大きな壁画「熊野詣絵巻」が有名で、南紀州に向かう特急列車の発着場でもある駅構内にかかるこの作品は、乗降客に否が応でも南国への旅情をかきたてるものがあります。

コレクション展でも、「春の浜辺」「立岩の海岸」など南紀の海岸が描かれた鍋井の画がいくつか見られました。鍋井は随筆集『閑中忙人』(1953年9月)で、南国の魅力を語っています。「南紀白浜のT桟橋から、湾内を田辺に渡る汽船がある。この汽船の両舷からは、庭園にでも持つて帰りたいやうな、手頃な島が次々に見え、湾内背後の山々は、四季とも青々としてゐて、南国らしく、人の心を暖く明るくする」。鍋井が好んだ画題は、ここに紹介された白浜、田辺だけでなく南紀勝浦から和歌の浦までほぼ紀伊半島の紀州全域にわたっているようです。

鍋井は大正時代にすでに二科展で二科賞を受賞、二科会会員になるなど二科展で活躍する一方で、郷土大阪に関わる随筆も数多く残した文筆家でもありました。そんな中で、寄席や落語家について記しているものがあります。1960年の『大阪繁盛記』中の「法善寺界隈」を語っている部分がその一つです。「西にあるのが紅梅亭、東にあるのが花月で、両方共落語を主とする寄席であった。春団治、団子、円馬、染丸、三木助、枝鶴(後の松鶴)など大阪の名手をここで聞いたもので、春団治の突飛なみなり、濃い紫の羽織に、銀板で造ったような紋所をつけたり、アッと驚くばかりで、小便など、しきりと人のいむ言葉をしゃべりまくって、お客を笑わせた」。

鍋井が初代桂春団治、二代目笑福亭枝鶴(五代目松鶴)らを法善寺横丁にあった寄席で聞いていたのは、昭和の初め頃だったと思われます。この後、「初代春団治」の章もあって、鍋井は次のように述べています。「近年なくなった二代目の春団治と、その先代の春団治について話し合ったことがあった。」とあるので、鍋井は二代目とは懇意であった模様で、初代の思い出が出てきます。「或日、その頃、大阪市内に住んでいた私の家の附近で、偶然に春団治に出会ったことがある。銭湯の帰りらしく、ニッケルの風呂行きの小形バケツをさげて、同じく女湯から出て来たらしい女性がつきそっていた。それから近くの市場へ立ち寄って、魚屋を二人で覗いて行った。」と続けて、初代がこんな風にして次々と付き合う女性を取り替えていったことを想像しています。

鍋井は初代と二代の春団治にはこのように愛着を持っていたようですが、五代目笑福亭松鶴もファンであったことがうかがえる文があります。1962年8月の『大阪ぎらい物語』の一節「大阪の天王寺さん」です。「松鶴(名人春団治と共に、大阪落語を代表していた人)の『天王寺まいり』をきくと、お彼岸さんの賑わいが、さもさもありのままに伝えられる。『グヮーン』と喉を鳴らして、落語家常用の湯呑を前に置くと、『すんで回ってよる』と、それで竹ごまが、すみきって回っているような表現をするなど、まずこれで天王寺の石の鳥居をはいるなりの気分を出す話術なのである」「こんなうまい話術はないと、私は昔から感心しつづけている」。

五代目松鶴をよく聞き込んでいた鍋井ですが、この本のはじめには画家仲間の小出楢重と上京した際、須田町の寄席の柳家小さん独演会に一緒に入ったエピソードも書かれていました。画壇の重鎮であった鍋井の落語好きが、十分に伝わってくる随筆集です。


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