正岡子規

作家寄席集め 第2回 正岡子規/恩田雅和

夏目漱石が明治41(1908)年9月の雑誌「ホトゝギス」で、親友正岡子規の思い出を語っています。時期からみて、子規の7回忌に合わせた企画だったようで、そこで漱石は子規と親しくなったきっかけについても触れています。

正岡子規

彼と僕と交際し始めたも一つの原因は、二人で寄席の話をした時、先生大いに寄席通を以て任じて居る、ところが僕も寄席の事を知つてゐたので、話すに足るとでも思つたのであろう。夫から大いに近よつて来た。

愛媛県松山市出身の子規と東京生まれの漱石が、第一高等中学の同学年同士で寄席の話をしたことが互いに親近感を持つことになったというのです。つまり幼い時分から寄席に出入りしていた漱石に引けを取らないくらい、子規も上京後に寄席に足繁く通ったことがみてとれます。

漱石と落語を論じる際に欠かせない資料の1つが、漱石の長編小説『三四郎』の一節です。その3章に、同級生の与次郎が三四郎を本場の寄席「木原店」へ連れて行き、三代目柳家小さんと三代目三遊亭円遊の比較論を語るシーンがあります。「小さんは天才である。あんな芸術家は滅多に出るものじゃない」として、次のように続きます。

円遊も旨い。しかし小さんとは趣が違っている。円遊の扮した太鼓持は、太鼓持になった円遊だから面白いので、小さんの遣る太鼓持は、小さんを離れた太鼓持だから面白い。

漱石が実際に見た小さんと円遊を比べての率直な感想を、与次郎の口を通じて語らせているようにもみえます。あるいは三四郎と与次郎の二人を、漱石自身と子規になぞらえていたようでもあります。

子規は学生生活を始めた当初の明治17年から25年まで、随筆『筆まか勢』を残しています。その22年頃の記述に「落語連相撲」と題し、子規自身が行司役を務め2人の落語家を取り上げて特徴などを評する一文がありました。1組目は「左円朝 右柳桜」で、2組目が「左円遊 右小さん」でした。そこでは「円遊の滑稽、殊に小僧を説き、幇間を談じ 親父の揚げ足を取り 若旦那の気を引くこと実に妙なり」とし、「小さんの書生を語り、神田の兄ィを話する処、人をして真物よりも巧なりといはしむ」と記しています。円遊の幇間、小さんの真物など『三四郎』で展開された比較論とどことなく通底しているものがあります。

『三四郎』の1章で、三四郎が上京途中の列車の中で広田先生と乗り合わせ、水蜜桃を勧められるところがあります。その時に広田先生は唐突にこんなことを言い出します。

子規は果物が大変好きだった。かついくらでも食える男だった。ある時大きな樽柿を十六食った事がある。それで何ともなかった。自分などはとても子規の真似は出来ない。

三四郎は笑って聞くだけでしたが、子規について書かれているのはこの小説で後にも先にもこの箇所だけでした。

『三四郎』の新聞連載が開始されたのは、明治41年9月1日です。冒頭紹介した「ホトゝギス」で子規の思い出が語られているのと同時期でした。しかも子規の命日は9月19日で、『三四郎』中、唯一子規と実名を載せた部分の掲載日とほぼ重なっています。間違いなく漱石はそれを書くことによって、7回忌の子規を追悼する気持ちが強かったのだと思われます。そうしますと、『三四郎』の小さん円遊比較論も子規と寄席の話をしていた時の影響を受けたものとも考えられますし、与次郎に語らせていたこと自体が子規への思いをさりげなく読者に知らせていたのかもしれません。


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