田河水泡

作家寄席集め 第19回 田河水泡/恩田雅和

爆発的な人気を博した漫画「のらくろ」の作者の田河水泡(1899~1989)は、落語作者でもありました。

「のらくろ」は、野良犬の「のらくろ」が犬の軍隊に入り、二等兵から徐々に昇進する物語で、昭和6年、雑誌『少年俱楽部』に「のらくろ二等卒」の題で連載開始されました。それから「のらくろ一等卒」「のらくろ上等兵」などとして延々11年書き継がれ、日本中に「のらくろ」ブームが巻き起こりました。

戦後も昭和27年「のらくろとハンブル」、同36年「のらくろ中隊長」などを連載してブームは続けられ、合わせて田河は「サザエさん」の長谷川町子、「あんみつ姫」の倉金章介ら弟子の育成にも力を尽くしました。「のらくろ」は、すでに昭和9年にアニメーション映画で制作されていますが、昭和45年から4年半、また同62年から1年間、それぞれテレビでアニメ放映されましたので、昭和の漫画界は「のらくろ」、田河の時代であったといってよいくらいです。

田河水泡は明治32年、現在の東京都墨田区に生まれ、幼時に母が病死したため江東区の伯母一家のもとで育てられました。近所には寄席がいくつもあって、永代橋に近い冨吉亭に子供たちで誘いあい、田河はよく落語を聞きに行っていたようです。

田河の没後1991年に刊行された『のらくろ一代記―田河水泡自叙伝』に思い出が語られています。「昼席で前座がしゃべっている頃なので、客が少ないから寄席のほうでも通してくれる。おとなしく座って聞いているうちはよいが、飽きて来ると後に積んである座布団の上にのぼって、遠くから高座を高見の見物だなんてやってるうちに、座布団の山を引っくり返しちまって、『静かにしろ』と怒鳴られることもあった。番組のよいときは伯父が夜の席へもつれて行ってくれたから、有名な落語家の噺も聞いていたはずだ。」

小学校を卒業後、田河は薬屋などで奉公し、陸軍一等兵として従軍、除隊してからは日本美術学校に通って抽象画の勉強をしました。田河の本名は高見澤仲太郎でしたが、絵に熱中していた頃は高見澤路直と名乗りました。しかし、抽象画はいくら描いても売れませんでした。

田河の死後『のらくろ一代記』の残されたあとを書き継いだ妻の高見澤潤子が、絵が売れなかった頃の夫の胸中を思いやっています。「毎月きちんと収入のある仕事がほしいと思い、ふと思いついたのが落語であった。子供のときから講談落語を聞き、滑稽な話や言葉のギャグ、しゃれなどをよく知っている」「誰もまだ手をつけない新作落語を書いてみよう、と思いついたのであった」。当時、大衆雑誌を何冊か出していた講談社に持ち込むと認められ、高澤路亭という落語家のようなペンネームが付けられて、「濡れ鼠」「一夜学問」などの新作落語を次々に発表して雑誌に載せました。

このうち「濡れ鼠」は、初代柳家権太楼が「猫と金魚」と改題して演じ、大きな評判をとって権太楼の十八番になりました。権太楼の後も、「猫と金魚」は十代目桂文治、八代目橘家円蔵らの人気者によって継承され、落語ファンには田河原作とは知られずとも古典落語同様に受容されて、現在に至っています。

さて、高澤路亭の新作落語が軌道に乗ったあと、講談社の編集長に、「あなたは絵描きさんですってね。絵が描けるなら、落語のような滑稽なストーリーを漫画に描いてみませんか」と勧められ、田河は漫画の道に踏み込みました。漫画の筆名を考え、本名の高見澤をローマ字でTAKAMIZ・AWAとし、漢字の田河水・泡とあてはめて「タカミズ・アワ」と読ませようとしました。けれど誰もそうとは読んでくれず、「タガワ・スイホウ」、つまり漫画家・田河水泡が誕生したのでした。


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