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第2回 武田信玄の軍用金が 富士の樹海に!
少し前まで「日本三大埋蔵金」といわれる伝説があった。徳川幕府の埋蔵金、太閤秀吉の黄金、奥州藤原氏にルーツをもつ結城氏の財宝だ。
このうち秀吉の黄金は、最近マニアの間では除外されつつある。探索者が途絶えたことと、残された文書は、多田銀銅山(兵庫県猪名川町)に鉱物資源の埋蔵量がたっぷりあることを伝えるもので、巨額の大判や金塊が隠されたのではないと解釈するのが正しいと思われるからだ。
代わって台頭してきたのが、武田信玄の軍用金である。有力な新情報もあり、最近は探索者も増えてきた。
戦国時代後期、天下取りを目指せるほどに力をつけてきた武将は、例外なく経済力も持ち合わせていた。鉄砲が必需品になると、購入するための金銀を得るため、武将たちは躍起になって鉱山の開発を進めた。
成功者の一人が武田信玄で、鉱山技師集団を使って甲斐や信濃だけでなく上野など他国にも鉱脈を求めた。そして、甲州金といわれる金貨をつくり、軍資金として蓄えていた。海がなく、四方を敵に囲まれていた信玄は、政略結婚などで味方を増やすとともに、いざというときのために軍事的要所にあらかじめ軍用金を埋蔵していたという。
その一部が未回収のまま武田氏滅亡とともに眠りについたらしい。今から50年前に、そういうものが発見された実例もある。
筆者の探索活動
これまでは、領内で最大の黒川金山の近くにある一之瀬渓谷(甲州市)や、本栖湖の南の竜ヶ岳が探索の舞台だったが、筆者は今から30年ほど前に、本栖湖の近くに住む古老から耳寄りの話を聞き出した。
明治の初めごろのこと、地元の男が農作業の合間に青木ヶ原の樹海に足を踏み入れ、溶岩洞穴の底に置かれた金貨の入った壺を、偶然に見つけたというのだ。男は驚いて村へ帰り、数名を引き連れて現場に戻ったが、何の目印もつけてこなかったので、その場所がわからない。似たような穴がボコボコあいていて、見分けがつかなかったのだ。以来、何度行ってもらちがあかず、そのまま今日に至っている。
穴は狭くて深く、手を伸ばしても届かなかったのだろう。現場には武田時代に築かれた石塁が、およそ2キロにわたって形を残している。敵の侵入を防ぐために溶岩を積み上げたもので、ここが軍事的要所だったことはまちがいない。
筆者はそれ以来足繁く現場に通い、金属探知機を使ったり、さまざまな方法で探索中だが、まだ成果は出ていない。しかし、現在はポイントを30メートル四方ほどの範囲に絞り込んでおり、コロナ禍のために調査を1年半ほど休止しているが、再開できれば次はまちがいなしと、かなりの自信をもっている。
ちなみに甲州金は現存するものが少なく市場価格が高い。15グラムの「露一両金」が1個500万円。壺に入っているということは100個や200個ではないはずだ。