住之江公園や住宅地 加賀屋甚兵衛らが築いた土地
- 2017/5/5
- 先人の足跡をたどる
先人の足跡をたどる №129(住之江区) 大阪案内人 西俣 稔
前回の真住中学校西隣が住之江公園です。木々が茂り池には野鳥が羽を休め、球場もあり高校野球予選などで球児達が白球を追っています。住吉公園からわずか1km足らずに、大きな公園が2つある住之江区は、今も神功皇后の言葉と伝わる「真に住み吉」の街なのです。住之江公園は昭和5年(1930)に運動公園として造園され、戦時下では戦時菜園として利用されました。住吉公園にB29を撃ち落すための高射砲陣地が設置されたと同じ、時代に翻弄された公園でもありました。戦後は昭和21年に競輪場ができ、地元の強い反対で昭和39年廃止になり、跡地が球場となりました。現在、公園西には住之江競艇場があります。パチンコを含めギャンブルに全く興味のない私にとって、いびつな空間です。
……余談ですが、ギャンブルと言えばカジノ誘致の話。大阪の街を案内していると、もっとこういう所に税金を使って欲しい、と思うことが多々あります。例えば古代難波宮跡に宮殿を、また高槻城を大阪城天守閣のように再建するとか。ところが大阪の夢洲に万博誘致計画が進み、建設費は約1250億。国と府、経済界では資金確保のメドが立っておらず、多額の税金投入が予測されます。テーマは当初「人類の健康・長寿への挑戦」が不評で、…そらそうや!そんな一過性のことへ税金使うなら、健康長寿のため高額な国保掛金を下げてくださいよ…変更になったテーマは「命の輝く未来社会のデザイン」と、これも抽象的で意味不明。その内容は「世界お笑いグランプリ」「仮想現実でゲームキャラクターと対面」の事例もあるとか。(以上、『毎日新聞』2017年4月15日社説を参考)。万博後は最初から依存症対策が言われる、カジノ誘致へと計画されています。もっと往古から繋がる大阪の歴史や文化を、大切にして欲しいものです。
余談が長くなりました。公園の一角に第二次大戦などの大阪府の戦没者を祀る、大阪護国神社があります。昭和15年に延べ約36万人の勤労奉仕によって造られました。私は案内で戦争の悲惨さ、平和の尊さを語っています。神社の町名「南加賀屋」から、長居公園通を越えると町名が「北島」に。大和川に向かう途中、東西の道は果てが見えない程、真っすぐです。江戸時代一面から田んぼで、昭和に入って人口増加で宅地化した処です。
その新田開発を担ったのが、町名や地下鉄駅名に名を留める、加賀屋甚兵衛です。甚兵衛は大坂淡路(現中央区淡路町)の両替商でした。両替商とは今の銀行のようなもの、利口で働き者で、丁稚から番頭さらに暖簾分けで、「加賀屋」両替商を起こしました。甚兵衛は商用で幾度も紀州街道を、淡路から堺まで往来していました。ある日、大和川の大和川橋から河口を眺めていると、水流が運ぶ大量の土砂で砂州が出来ていく風景を目にして、新田開発を思いついたと伝わります。初めは大和川河口の北島新田開発を享保十三年(1728)に計画、天文二年(1737)に完成しました。次第に新田開発に力を入れ、住吉川周辺を開発したのが加賀屋新田です。古代海であった住之江区は、加賀屋甚兵衛らの尽力で出来た土地なのです。
さらに府道を越えると大きな屋敷に着きます。加賀屋新田会所跡で、八尾の安中新田会所、東大阪の鴻池新田会所と並ぶ、府内三か所の貴重な会所跡です。加賀屋新田開発の拠点として宝暦四年(1754)の創建、会所とは今でいう村役場で年貢の徴収や、田地、河川、橋などの維持管理を担っていました。
会所跡は建物、木々、庭など綺麗に整備され一般公開されています。屋敷内のご案内は次回させて頂きます。
【訂正】前回の十三間堀川の記述で、加賀屋新田の灌漑用、とありますが、まだ開墾されていませんでした。