十三間堀川周辺の歴史 住吉川・緑木・芦原橋

先人の足跡をたどる №128(住之江区・浪速区) 大阪案内人 西俣 稔

十三間堀川跡前に建つ石碑

4話前に住吉高燈籠をご案内しましたが、続きで住之江区などです。住吉大社の太鼓橋から西へ続く参道には、多くの灯籠が並んでいます。南海住吉大社駅を越え再建した高燈籠(灯台)をさらに進むと、高速道路に当ります。手前右に小さな高燈籠跡の碑が建ち、鎌倉末期からここにありましたが、昭和25年のジェーン台風で倒壊しました。明治18年(1885)の地図にも記され、町名「浜口」の通り港であった処です。

高速道路の下が十三間堀川で、川幅が十三間(約23m)あり付いた川名です。大阪治水工事の恩人、河村瑞賢が元禄十一年(1698)、津守新田や加賀屋新田などの灌漑用に、木津川と住吉川まで約7㎞を開削し、後に大和川まで延伸。昭和40年代後半に南部の一部を残し埋め立てられました。

ここから約5km北に架かっていたのが、南海高野線の「下十三間堀橋梁」。取材協力している毎日新聞連載「わが町にも歴史あり」で、環状線駅名で知られる「芦原橋」がどこにあったのか?を調べる過程で、この橋梁名が謎でした。芦原橋は大正4年(1915)市電道路として、あみだ池筋が通された時に、駅北東のいたち川に架設。昭和12年(1937)の地図に記されています。ところが昭和8年の地図や、ある本には芦原橋は十三間堀川東の、南海高野線橋梁と明記されているのです。

芦原駅近くに架かっていた「芦原橋」親柱

さて、芦原橋はあみだ池筋か?南海橋梁か?…浪速区史や南海電鉄史を紐解いても分からず、結局、新今宮駅近くの南海本社へ行き、橋梁名が「芦原橋」との地図を示し、担当者に調べて頂くと「下十三間堀橋梁」と分かったのです。つまり昭和8年の地図は誤記だったのです。地図にも誤記があり、例えば現在のある地図でも、JR桃谷駅東の商店街を「コリアタウン」との記載は誤りで、北東の御幸森商店街が正しいのです。鼬川は昭和15年から戦後にかけ順次埋め立てられ、芦原橋は昭和20年代後半に撤去されました。親橋は浪速神社(浪速区浪速西3)に保存されています。

住之江区に戻ります。十三間堀川跡と交わる川が住吉川で、上流は細江川また細井川といい、阪堺電車停留所「細井川」にも名を留めます。住吉川は江戸時代に付近を築地する際に、住吉大社参道の港として、埋め立てず残しできた川です。川床は桜などが植えられ散歩道となっています。川面が深く緑の鉄板、鋼矢板が並びます。天井川で洪水の原因であったのを、昭和30年頃、行政や工事関係者らの大変な努力で、川底を下げ安全な街を築いて頂いたのです。

住吉川を進むとすみ橋が架かり、市立真住中学校があります。211年神功皇后が住吉大社建立の際、当地を「真に住み吉」と言った故事から付きました。歴史を継承した橋名や校名ですね。豊中市、高槻市など昭和23年に新制中学ができた際に、校区がまたがり特定の町名を校名にできず、1中、2中、3中…と、無味乾燥な学校名と、えらい違いですね。その点、豊中の「森友学園」や「安倍晋三記念小学校」の校名はグーですね?超皮肉!!

明治18年(1885)の地図。
①「嬰木」(現緑木) ②「住吉川」 ③左の破線が「十三間堀川」
④〇が高燈籠 ⑤田んぼが「現住吉公園」 右端に「住吉神社」とある

真住橋北西の町名が「みどり」、これが奥深いのです。地下鉄駅名や町名にある「加賀屋」、1740年頃付近を開墾した加賀屋甚兵衛によります。甚兵衛は現富田林市桜井町の出身で、桜井の姓を名乗っていました。古の人は出身地に誇りを持ち、「桜」の旧字体「櫻」を分解し、「嬰」は「みどり」とも読め、嬰木みどりきと名付け、昭和19年までは「嬰木町」でした。大正区の千島も開墾した岡島嘉平次の出身地、千林村(現大阪市旭区)から「千」と姓の「島」を併せた町名です。因みに大正区にある大型家具店IKEAイ ケ アは、創設者のスウェーデン人、イングヴァル・カンプラードの頭文字IKと、出身地と育った村の名、エルムタリッド・アナグリッドのEAが由来です。名やルーツを大事する想いは国を越えていますね。芦原橋同様、さりげない町名を調べると、奥深い先人の足跡を辿れます。次回は住之江公園からです。


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