南方熊楠
- 2018/12/5
- 作家寄席集め
作家寄席集め 第5回 南方熊楠/恩田雅和
粘菌類の生物研究をはじめ民俗学、人類学など幅広い分野で業績を残した世界的な博物学者の南方熊楠(1867~1941)は、若い頃寄席に通い、落語にも通暁していました。
大正初めに書かれた「『郷土研究』一至三号を読む」に、「明治一八年、予東京大学予備門にあった時、柳屋つばめという人、諸処の寄席で奥州仙台節を唄い、予と同級生だった秋山真之氏や、故正岡子規など、夢中になって稽古しおった」とあります。後の海軍中将の秋山真之や近代俳句の先駆者、正岡子規と同級生であったというのは驚きですが、熊楠が彼らとともに寄席に通っていた事実は「知の巨人」と称された熊楠にまつわる隠されたエピソードの1つです。
ここに出てくる柳屋(家)つばめは、柳派の初代頭取、柳亭燕枝の弟子でしたが、得意な都々逸を生かし、しまいに五代目都々一坊扇歌を襲名したほどの音曲師でした。熊楠は都々逸を好んでいたとみえ「明治一七―八年頃、神田の万世橋近くに白梅亭といふ寄席があつて、学生どもが夥しく聞きに出かけた。立花屋橘之助てふ若い女が前座で種々の芸当を演じた。紀伊の国入りの都々逸といふのをよい声で唄ふので自分生国に縁がある故、しばしば傾聴した」(昭和7年7月「『紀伊の国』の根本唄」)と、寄席の名と当時人気を博した女流名人を記しています。また「吾輩お江戸で書生だつた時、奥州の仙台節が大流行で、正岡子規や秋山真之が必死にこれを習ひ、『上野で山下、芝では愛宕下、内のおかめは縁の下、ざらざらするのは猫の下、皆様すくのはコレナンダイ、臍の下』とうたひ居つた」(昭和5年10月「千疋狼」)など、唄の一節とともに子規ら同級生と愛好していたことをここでも述べています。
子規、秋山真之らとの思い出話はまだあって、彼らが落語を覚えていたことが伺える熊楠の評論もあります。それは、大正10年に雑誌連載された「十二支考」の「鶏に関する伝説」3章において「一六世紀に出たストラパロラの『面白き夜の物語』」を紹介している部分です。鶏代を法師が支払うと騙した男が百姓を法師の元に連れて行き、百姓は「貴僧に懺悔を聴いてもらうために来た」と囁き「大声で上人即刻対面さるるぞと言うて出て行く」。「法師は百姓に、跪いて懺悔せよと命じ、自ら十字を画き、偈を誦し始めた。これに似た落語を壮年の頃東京の寄席で聴いた」として、熊楠は廓噺の「付き馬」のストーリーを詳しく語ります。吉原でさんざん遊びつくした無一文の男、伯父が支払うからと取り立ての若い衆を騙し、町の早桶屋に連れて行きます。小声、大声を使い分け、早桶屋に座棺を急きょ作らせ、若い衆を残しておさらばするお馴染みの話。「その詐欺漢が二人間を通事する辞なかなか旨く、故正岡子規、秋山真之など、毎度その真似をやっていたが余は忘れしまった。今もそんな落語が行わるるなら誰か教えてくだされ」。
博覧強記の熊楠だけあって、この他にも落語の源になったとみられる古今東西の話は縦横無尽に語られます。大正4年に発表された「禅僧問答の笑話」は、「餅屋問答」(江戸落語では『こんにゃく問答』)のルーツ探しで、17世紀初めフランスで刊行された『上達方』に同趣向の話がありました。「日本の餅屋の禅問答の話と、右に述べたスイスの大工の学論の話はあまりよく相似ておるので、箇箇別々に自然に生じた物でなく、たぶんインド辺にあった一話が東西に分れ伝わりて同軌異体のものとなったらしい」と、背景も考察されています。まだまだ「蛇含草」「佃祭」「松山鏡」など人口に膾炙した落語に言及した評論がありますが、すべて頭に入れていた熊楠にとって、それらは世界的な視野から見た史料の極一部だったのでしょう。