桃ヶ池と山阪神社 田辺界隈を辿る
- 2016/2/15
- 先人の足跡をたどる
先人の足跡をたどる №114(東住吉区)
▼今回から奈良時代から続く地名、「住吉」一帯をご案内します。まずは東住吉区から。昭和18年(1933)人口増加に伴い、住吉区から分区しました。JR南田辺駅から出発しましょう。「田辺」の由来は古く田部とも書き、飛鳥時代に朝鮮半島からの渡来系田辺氏が開発した土地で、名からして農作に携わっていた豪族でしょう。隣の平野区も含め付近一帯は、渡来系に因む地名が残ります。平野杭(く)全(また)荘を開発した坂上(さかのうえ)氏は百済系で、現生野区から当地一帯を平安時代は百済郡と呼び、大正14年(1925)まで百済村もありました。JR東部市場前駅は百済貨物駅と呼ばれ、今川には百済大橋、百済南小学校もあります。駒川は高麗を「こま」と読みその当て字です。地下鉄駅名の喜連瓜破(きれうりわり)は、旧喜連村と瓜破村を合わせた駅名で、高句(こうく)麗(り)の「高」を略し喜連の字を当てた地名です。
▼南田辺駅の東沿いに平行して、フェンスに囲われた空き地が続きます。阪和線高架前の敷線跡です。高架になる前は全国ワースト10の開かずの踏切が連なり、出勤や通学の人達は不便を極まっていました。そこで2006年に高架になりました。
▼阪和線が阿倍野区と東住吉区の境界で、西側は阿倍野区長池町です。「長池」の町名は明治18年(1885)の地図でも確認できます。正に南北約2キロある長池で、付近は田辺の地名の通り田園地帯の灌漑池が多くあり、その一つでした。現在は途中、いくつか埋め立てられ、道路や公園となっています。長池の北にあるのが桃ヶ池で、公園として整備され市民の憩いの場となっています。桃ヶ池の由来は明治の地図通り、北端の方がやや膨らんでいて、人の足(股)に似ていて付きました。昭和8年(1933)公園になった時に、桃が咲いていたわけ訳でもなく、綺麗な「桃」の字に変えました。股ヶ池?やっぱり桃ヶ池ですね。
▼長池を後に阪和線をくぐると、東住吉区山坂町です。町名由来となったのが山阪神社。大坂の「坂」を「土に反(かえ)る」と嫌い大阪とした、と同様に縁起を担いで盛んになる意の「阪」に変えました。「山坂」と思えるほど高台ではなく、小高い所に建っています。高さの感覚は時代と共に変わります。例えば明治45年(1912)に建った初代通天閣は65㍍でした。当時の子どもは…♪ダイヤモンドは高い(高価)、高いは通天閣、通天閣は怖い(展望台から見下ろすと)、怖いは幽霊♪…と尻取歌を歌っていました。現在ハルカスが300㍍、スカイツリーが634㍍。ビルも建っていない昔、この高さでも「山坂」と見え名付けられたのです。神社周辺は上町台地の凹凸が多くありましたが、宅地化の際に均されました。境内は神木に覆われ厳かな雰囲気が漂います。山阪神社は飛鳥時代に田辺氏が信仰した氏神、田辺西神と田辺東神を、西神として山阪神社を、東神を針中野の中井神社を創建しました。
▼山阪神社は相撲の神様で、相撲の祖といわれる野見宿禰(のみのすくね)を祭っていて、その関係で境内には力石が六つ並んでいます。右端の新しい力石には「第五十八代横綱 千代の富士貢」と刻まれています。千代の富士は今の九重親方で、春場所中は当神社が九重部屋の稽古場となっています。「力石」の文字は九重親方の直筆です。
▼桃ヶ池から山阪神社まで、わずか1㌔ほど歩いただけですが、田辺も歴史豊かな町なのです。次回は立派な多宝塔が建つ法楽寺からです。