「猫塚」と南海平野線跡、今宮神社を辿る
- 2019/10/15
- 先人の足跡をたどる
先人の足跡 No.158(西成区・浪速区) 大阪案内人 西俣 稔
前回の南海天王寺線廃線跡を抜けると、商店街「動物園前一番街」。オシャレな名ですが、純喫茶(懐かしい響き)やカラオケ店、めし屋などが並ぶ昭和レトロな風情です。しばし歩き「スーパー玉出」を右へ曲がり、どんつきを右へ入ると、狭い境内の松乃木大明神があります。境内西が天王寺線跡で手前に井戸が残ります。元々今の新世界にあったのが、明治36年(1903)の内国勧業博覧会開催の際に当地へ移転しました。社殿左にある明治34 年建立の「猫塚」の碑が、形をよく見ると三味線の胴の形になっています。文楽の大ファンが、文楽に欠かせない三味線は当時は猫革を使っていたので、犠牲となった猫を供養するため、建立しました。今も玉垣には寄付された三味線奏者の名が連なっています。下町の片隅にも先人の優しさが伝わります。「猫塚」が故、境内や付近には数匹の猫が暮らしています。
商店街に戻り南下するとフェンスに囲われた空き地が、南海平野線跡です。ここから北西へ曲がりすぐの今池駅に繋がっていました。南北の道に対し建物が歪に斜めに建っているのは廃線跡だからです。平野線は大正3年(1914)に、現JR平野駅南にあった平野紡績工場の拡張で、市内中心部から通う工員を運ぶために、今池駅から現平野区平野本町まで通されました。ところ紡績工場が昭和44年(1969)に閉鎖され、また途中から廃線跡下を通る、地下鉄谷町線が八尾まで延伸され、昭和55年に廃止されました。廃線跡の上は阪神高速松原線が通っています。天王寺線とともに廃線跡を辿り、痕跡を捜すのも一興です。
商店街をさらに南下すると、道が突き当たり、東側の坂上には明治初期にできた阿倍野斎場があります。この東西の道こそ奈良時代からの住吉郡と西成郡の境界(境界は時代により変貌)で、西成郡条里区画の起点。この道から淀川区十三まで直線で8500mあり、条里制一区画654mで割れば12.996!で「十三」。十三の北にある十八条まで11800mで、同じく割れば18.04 で「十八」!車が往来するフツーの道ですが、歴史が秘められています。
境界の道を西へ阪堺電車を越えると紀州街道へ、北上するとJR新今宮駅へ戻ります。これから今宮神社などをご案内します。新今宮駅北に工事フェンスが、広範囲に連なります。元々、明治36年創業東洋一の化粧品メーカーの工場、「中山太陽堂」(現クラブコスメチックス)の土地でした。本連載で記しましたが、通天閣の天井画を寄付した会社です。工場移転後、長期に草ぼうぼうの空き地で跡地利用が決まらず、やっと「星野リゾート」のホテルが建つことに、完成すればこの街も様変わりするでしょう。跡地北の道が斜めに西へ通っているのは、長橋川跡で、今宮工科高校から西へ木津川まで流れていました。電信柱を見上げると「ミズサキ(水崎)」の表示が、昭和55年(1980)までの町名で、ここから東は上町台地の坂があり、水が流れず長橋川の崎が由来です。
少し西に今宮戎神社が鎮座します。社殿は昭和20年3月の大空襲で全て焼失しましたが、同31年に本殿が、41年には他の建物が新しく再建されました。1月の十日戎には3日間で120万人も訪れる賑わいですが、普段は綺麗に整備され、閑散とした心が和む神社です。戎さんは水難から守り、商いの繁栄を叶える神様として、漁民や商人などから厚く信仰されていました。元禄期(1700年頃)に今のような賑わいとなり、大坂市中の天満青物市や雑魚場の魚市、材木、漆、金物、薪炭などの商人たちが群れを成し参拝し、一層盛大となりました。また十日戎に参拝した人達は、本殿裏に廻り羽目板を叩き「参りました腌」と叫ぶ風習があります。これは余りの多くの参拝客が、無理難題な願い事を祈るので「戎さんが耳が遠くなる、本当に聞いてくれていますか?」との思いで、賽銭の元を取る大阪人の気質から念を押す風習なのです。
神社東の道を北上すると、高島屋東を抜け道頓堀川の戎橋へ通じています。「戎橋」の由来はこの今宮戎神社の参道であったからで、由緒ある橋名です。決して「ひっかけ橋」ではないことを、広めて行きたいものです。次回は、広田神社などをご案内します。