ジャンジャン横丁と「てんのじ村」碑、廃線跡を辿る

先人の足跡 No.157(浪速区・西成区) 大阪案内人 西俣 稔

新世界の続きです。行列のできる串カツ屋などで賑わう、ジャンジャン横丁(ジャンジャン町とも)の由来は?北入口の上に通天閣を擬人化し、三味線を弾いている絵が。昔は「ジャン♪ジャン♪」と三味線を爪弾き客寄せしていて、こう呼ばれたのです。横丁には串カツ屋の他、寿司屋、居酒屋、将棋クラブなどが軒を連ねています。まぁ大阪らしい面白い町で、明治45年(1912)にできた初代通天閣完成100年記念で、2012年に地元の飲食店協会が100歳以上のお客さんが来れば、無料で食べ放題のポスターを貼っていました。本気なのか冗談なのか?ある居酒屋は串カツの串に赤い印があれば、もう一本サービス。またある寿司屋の板前は女性客が来ると、「なんでも握りまっせ手も握りまっせ 」と。言われてない人も?そら板前さんの好みでしょう?喫茶店も入口に「レイコー、レスカあります」と貼られ、若い人分かります?念のため冷コーヒーと、レモンスカッシュ、昭和ですね。横丁の南入口はラーメン屋ですが、二階の看板が前のままで麻雀店「新南陽」と。横丁の正式名「南陽通商店街」の証です。

通天閣の天井画

通天閣に戻り天井を見上げると見事な絵が施されています。近くにあった化粧品メーカー中山太陽堂(現クラブコスメチックス)が、初代通天閣に寄付し描きました。しかし二代目通天閣には無かったところを2015年免震対策工事の際に復刻しました。花園で遊ぶ三羽の孔雀が見事な色彩で、約17mの八角形、高さ12mの大天井に描かれています。ぜひご覧ください。通天閣下に将棋棋士、坂田三吉(阪田とも)の顕彰碑が、将棋が盛んなこの地に建立されました。横には将棋盤が掲示され、ある対戦の王手の局面です。将棋一筋の三吉は絶対に勝つ!と自信あった神戸での対局で敗れ、悔しさのあまり堺まで、歩いて帰った逸話があります。私は幾度も案内していますが、ある時なにを間違ったのか、「サカタ・トシオ(坂田利夫)」と言ってしまい、「すみません」のあと参加者から「前田五郎呼んだろか!?」と。

坂田三吉顕彰碑

新世界を歩いていると、随所に尖がった頭と吊り上がった目の「ビリケンさん」が置かれています。由来を辿ると、アメリカの女性芸術家フローレンス・ブレッツが、夢に出てきた不思議な子どもを像として創作。東京の商社が明治末期に渡米した際に、キャラが「福々しい」と会社の発展のために持ち帰り、これが広まり通天閣にも置かれました。足を撫でると福があると親しまれています。スパワールドの北には戦前、国技館もあり新世界の賑わいの一つでした。

てんのじ村記念碑

横丁南のJR 線を越え、西成区へ少し寄り道します。国道25号線を渡り少し東へ、路地に入れば古い旅館の前にある大きな碑が「てんのじ村記念碑」です。作家、難波利三さんが直木賞を受賞した同名作品の舞台です。戦前から「上方演芸発祥の地」で、売れない芸人たちが長屋で暮らし、互いに芸を磨き励ましあった町です。昭和40年頃高速道路が通され、多くの長屋が撤去されました。そこで昭和52年11月8日、有志によって碑が建てられました。題字は「上方漫才の父」と呼ばれた、漫才作家の秋田實ですが、碑の除幕式の直前10月27日に亡くなりました。関係者にとって無念の除幕式でもありました。私は秋田實のこの言葉が大好きで、いつもここで語っています。「月よりも 花よりも なお美しき 人の笑い顔なり」、そうです仲がいいから、平和だから、一定の生活の安定があるから「笑える」のです。私の歴史案内の原点と同じです。

南海天王寺支線廃線跡

碑から少し南の細い道の両側がコンクリートに、南海天王寺支線跡です。廃線跡は曲線を描き公園となっています。支線は天下茶屋から天王寺まで敷かれていました。開業は明治33年(1900)、当時南海新今宮駅はなく、南海本線周辺の乗客は関西本線(現JR環状線等)に乗り継ぐには、この支線に乗換えていました。新今宮駅ができたのが昭和41年(1966)で本線と繋がり、支線の乗客が減少し1993年に完全に廃止されました。廃線跡と動物園前商店街が交わる手前に「飛田本通駅」がありました。かつてタバコ屋の看板が商店街側ではなく廃線跡側にありました。駅のホームであったからです。次回はもう一つの廃線跡です。


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