昭和の風情が漂う、新世界と通天閣
- 2019/7/15
- 先人の足跡をたどる
先人の足跡 No.155(浪速区) 大阪案内人 西俣 稔
前回、浪速区に独力で架けた十津川屋橋を紹介しましたが、今回は新世界をご案内します。スタートはJR新今宮駅、隣の今宮駅に対し「新」が付きますが、いつ駅ができたのか。昭和36年(1961)までは、環状線はなく大阪駅から天王寺駅までを城東線、大阪駅から西九条駅までを西成線と呼んでいました。同年西九条駅から今宮駅まで敷設し環状線が開通、新今宮駅、芦原橋駅、大正駅、弁天町駅が順次開業しました。新今宮駅は昭和39年(1964)に完成、一方の今宮駅は古く、関西本線の駅として明治32年(1899)に開業しました。「新」が付いても55年前のことなのです。
同じく通天閣がそびえる「新世界」の「新」、これはもっと古く、明治36年(1903)内国勧業博覧会の跡地に同45年遊園地ルナパークとして、新世界ができました。116年前のこと。因みに梅田新道も内国勧業博覧会開催の際に、梅田と新世界を繋ぐために大阪駅前から淀屋橋まで通されました。これも同じく116年前です。これから「串カツ」だけではない、新世界をご案内します。
博覧会前の付近は閑散とした野原でした。その風景が環状線唯一の踏切名に残っていました。7年前に廃止された「一ツ家踏切」。当地は上町台地の起伏で宅地に適さず、ポツンと一軒の家があり付きました。ところが明治半ばから不況が続く中で、日露戦争前の明治36年、景気回復のために内国勧業博覧会を開催、約520万人が入場しました。跡地はニューヨークの遊園地コニーアイランドをまねてルナパークが開園し、パリの凱旋門にエッフェル塔を突っ込んだ形の初代通天閣ができました。大阪人らしい「ええとこ取り」が微笑ましいですね。
通天閣は当時東洋一の75mの高さは浪速っ子の度肝を抜き、尻取り歌「♪ダイヤモンドは高い(値段が)~高いは通天閣~通天閣は怖い(展望台から見下ろすと)~怖いは幽霊♪」と歌われました。大阪初のエレベータとルナパークと繋げた、ロープウェイが大当たりし、連日満員御礼。ルナパークは、奇抜なアイデアで客を驚かせました。切符切りは黒の上着に真っ赤なズボンのインド人、エジプト館、不思議館、モンキーホール、冷蔵庫を利用した氷山館などのパビリオンが並び大人気でした。その後ルナパークは不況や、庶民の飽き性のせいか衰退し、…そう言えば、新世界にあった、跡地が巨大なパチンコ店などの「フェスティバルゲート」も2007年に10年で閉園しましたね。…大正14年(1925) 別会社に売却され、演芸場や映画館、温泉、飲食のまちに変わり、新世界の原型となりました。
通天閣は昭和18年(1943) 付近の火災の類焼により塔脚が焼け、第二次大戦の金属供出令で、弾丸を造るために解体され、無残にも明石の海岸に放置されていました。戦後、通天閣再建の声が高まり地元関係者の尽力で、昭和31年(1956)、103mの二代目通天閣が誕生しました。再建が決まり工事の囲いが築かれた時、関係者は感動のあまり大泣きしました。昭和18年~31年まで大阪のシンボル通天閣が無かった風景が、林芙美子の小説「めし」に描かれています。東京在住の芙美子は、気さくな大阪人の気質や、美味しい店が多くある大阪が好きで、度々訪れています。「…昔、通天閣があったころ、この、75mの高塔を中心に、北方に、放射線状の通路があり、国技館や映画館、寄席、噴泉浴場、カフェや、酒場が軒を並べていた…」。「通天閣があったころ」の表現、昭和26年に書かれた作品でした。通天閣の名は「天まで通じる閣」で、「通」は博覧会の誘致や通天閣創建に多大な尽力を果たした、実業家で大阪商工会議所7代会頭、土居通夫の「通」を採用したと言われています。
変貌していく街、特に梅田北ヤードに林立する、覚えられない横文字氾濫の「新しい」ビル群。高い天井に分厚いショーウィンド、マニュアル通りのスタッフの応対、どこでも同じ味のチェーン店、どうも私は落ち着きません。その対極として雑然とした新世界の町、ジャンジャン町入口の小さなホルモン店、一人で切り盛りする寡黙な若い女将、沖縄民謡をBGMに、泡盛で煮込んだホルモン汁とビール。私にとって新世界はいつまでも、「新」世界なのです。
次回は新世界を歩きましょう。