終戦直後、独力で架けた橋 幻の十津川屋橋を追って(後編)

先人の足跡 No.154(浪速区) 大阪案内人 西俣 稔

「浪速区恵美須町の食堂『十津川屋』の西谷良一さん仮名・当時38歳)が、入堀川に小さな仮橋をかけた。夕日橋という橋があったが、戦災で焼け落ち、主婦は米の配給所まで遠回りし、通学する小学生は焼残った鉄管を危なげに渡るので、見るに見かねて月賦で材木を買い、独力で橋をかけた。名付けて…十津川屋橋…」。昭和23年7月23日付『朝日新聞』の要旨である。

私はこの人を捜して3カ月になる。西区中央図書館へ行った。昭和50年代の電話帳が山積みされ調べたが無かった。少し疲れた。しかしもう一度、昭和40年代の電話帳を司書にお願いした。もれのないように、「西谷良一」の4文字を追った。門真市を開いた。あった!みつけた!やっと「西谷良一」をみつけた。昭和43年、タイヤ修理業をしていた。

さっそく同年の住宅地図を手に、現地へ行った。当時からある薬局の女将さんは、「西谷さん、知っているよ。二軒隣で『パンク修理一本』と大きな看板を掛け、コツコツ働いていたよ。十津川村の郷士の出身と言っていた。でもどこへ行ったかは分からない。子どももたくさんいたよ。子どもの名前?覚えていない」と話した。初めて西谷さんと面識のある人に会えた。向かいの居酒屋の夫婦は「西谷さん。面倒見のいい人やった。奥さんは美人やった。え~恵美須で橋を架けたて?ええことしてはんな~そう言えば、家の前の用水路に、自分で橋を架けてはった。どこへ行った?それは知らん。子どもの名前?知らん」と。なんと西谷さんは、ここでも橋を架けていた。この小橋は、用水路に自転車ごと子どもが落ちたことも、架けた理由だった。優しい人だ。

八方ふさがりの私であったが、急展開する。十津川屋橋跡は確認できたが、食堂「十津川屋」の場所は分からなかった。この原文のイラストをお願いした、高宮良子さんの父、高宮信一さんは、『大阪保険医新聞』の挿絵にもよく登場する方である。なんと!信一さんが幼少の頃、この「十津川屋」近くに住み、行ったことがあると!信一さんからの手紙には「十津川屋の食堂は、『びっくりうどん』が有名で大きな鉢に二玉入っていた」と。地図も記され食堂の場所が特定できたのである。つまり、たまたま頼んだイラスト画家の父が、私が探し求めていた「十津川屋」に通っていたのである。正に「事実は小説より奇なり」である。これは偶然なのか?いいや橋を架けた西谷良一さん、追い続ける私、温かい絵を描く高宮親子、戦後混乱期の風景が繋いだ必然かも知れない。

さらに食堂跡の近所の方が、西谷さんの子どもの名前を憶えていて、電話帳で調べた。50人ほどの西谷さんに該当の名前があった。電話すると「はい。私の父です」と。長い道のりであったが、辿り着けたのである。良一さんの奥さんはご健在で、お会いすることができた。奥さんから好意的に良一さんのことを教えて頂いた。良一さんは中国へ出兵していて、軍服姿のアルバム写真に「死にたくないと、言っていた戦友が死んだ。死を決めていた私が、復員した。なぜ生きているのか。悔しい」との趣旨が記されていた。その想いが、戦後の混乱期、自分が生きることで精一杯の時代に、独力で橋を架けた原動力だったのか。奥さんからは他にも数々の善行を聞いた。…当時マンホールの蓋が盗まれ売られていた。危険なので木で蓋を作り塞いでいった。食堂裏の敷地にバラックの家を建て、貧しい人に新品の布団を与え住ませていた。食堂前の道が近くの工業高校の通学路で、生徒が遅刻しないように、水時計を作った。時計がよく出来ているので、教員生徒が見学に来たとも。…西谷良一さんは大阪府の善行賞一回目を受賞している。

大阪市戦災被害地図(昭和20年)
『大阪市戦災復興誌』(大阪市役所)より
市内約30%が被害。浪速区は95%が焼かれた。

『大阪市戦災復興誌』によると、十津川屋橋に架かっていた夕日橋は、昭和20年の空襲で焼け落ち、同24年に再建されている。十津川屋橋はわずか一年ほどの仮橋であった。しかし知られざる人物の美談は知って頂いた。幻の十津川屋橋が明らかになるにつれ、今、西谷良一さんと、みなさんの心に十津川屋橋が、架けられたかも知れない。

次回は新世界界隈です。(本文は2000年4月、寝屋川のタウン誌に掲載された記事に加筆訂正した文です)


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