暗越奈良街道と契沖ゆかり「妙法寺」を辿る


先人の足跡 No.152(東成区) 大阪案内人 西俣 稔

前回のセルロイド会館を後に、長堀通を渡ると小高くなった道が暗越奈良街道で、随所に碑が建っています。道に平行してフェンスに囲われた、細い空き地が水路の跡です。街道沿いに水路はつきもので、農作物を小舟で運んだり、灌漑や排水に利用されていました。昭和38年(1963)の地図にはまだ水路が描かれています。街道にある東成警察署西に「南無妙法蓮経法界 是の左りへ三町 常善寺」と刻まれた道標が建っています。江戸時代は道頓堀五座の芝居、演目はこの寺へ幕府の代官や関係者、役者が集まって、決めていました。道標は参集する代官や役者のために建てたのでしょう。

「暗越奈良街道」説明板

歴史を継承している看板

街道を東へ辿り今里筋を渡ると右に分かり易く、暗峠奈良街道の道程の説明板が掲示されています。すぐのガス器具屋の看板に、「ようこそシルクロードへ!暗峠まで三里 終点奈良八里」と個人で描かれ、歴史を大事にされています。さらに進むと両側には空襲を免れた古民家が軒を並べ、街道の風情が漂っています。

街道の風情を伝える、古民家

よくこの地を案内していますが、「熊野幼稚園」の送迎バスが走っています。なぜここが「熊野」?すぐ近くに熊野大神宮があり、神社が経営している幼稚園があるからです。街道沿いに神社仏閣はつきものです。熊野大神宮は社伝によると、…用明天皇二年(586)に聖徳太子が(隣の)妙法寺を創建したとき、十二坊もあった大釈迦の社務を司るため、当社を置いたといわれ、古くは熊野十二権現と呼ばれた。信長の石山攻め(1580年頃・現大阪城)の際に妙法寺とともに炎上、本社と一坊のみ再建、大坂冬の陣のとき京極若狭守忠高(徳川方の武将)の陣所になった縁で、江戸時代、新しく就任した大坂城代は、当社の参詣を慣例としていた。明治の神仏分離によって現在の社名となり、八劔社や菊理社、弁財天を合祀しています。…妙法寺との境がブロック塀になっていて、古くは一体であったことが分かります。

妙法寺は塔頭たっちゅう十二坊(塔頭= 境内にある小寺)がありましたが、信長に焼かれ、わずか角の坊一つだけ残りました。境内には江戸国学の最高峰、契沖の墓があります。契沖については『大阪保険医雑誌』にも連載されていた三善貞司氏『大阪人物辞典』などから要旨を引用させて頂きます。…契沖がいなければ、『古事記』や『万葉集』『源氏物語』等は現在への橋渡しは不可能であったであろう。寛永十七年(1640)尼崎城三の丸で生まれる。七歳の時に大病に罹り天満天神を信仰し奇跡的に治ったので両親に乞うて仏門に入った。十一歳で母に連れられ当妙法寺に住み住職となる。当寺で代表作である『万葉代匠記だいしょうき』を執筆した。水戸二代目藩主、徳川光圀(水戸黄門)が、契沖に『万葉集』の注釈を依頼、契沖はこれをきっかけに、七年かけて『万葉代匠記』二十巻を完成させ、光圀に献上、高い評価を受けた。…

過日私は築城400年記念で再建した、尼崎城を訪ねた際に城下町に契沖生誕地の碑を見つけました。また谷町7丁目にある円珠庵は、契沖が晩年長く滞在し諸学問の研究に励んだ寺で、当寺にも墓があり、契沖の足跡を知りました。

旅人の足元を照らしていた「火袋式道標」

熊野大社近くの府道に出ると、上部分の灯籠を施した、珍しい形の「火袋式道標」が保存されています。電灯のない時代に、街道を辿る旅人の足元を照らしていました。すぐ西は地下鉄今里駅、昭和50 年千日前線の延伸工事で、掘削した際に15mほど地下から、体長15mほどのクジラの骨が出てきました。なぜこの地に?実は現在の上町台地東の河内平野は古代、海で河内湾と呼ばれていました。長い長い時を経て、淀川水系や大和川水系の土砂が堆積し、湖になり陸地化していきました。上町台地の北端(現東淀川区崇禅寺辺り) で、大阪湾と繋がっていて、クジラが泳いできたのです。まさに上町台地の東に成った(生まれた)、東成区の地形の原点を垣間見られます。

次回からは新世界のある浪速区です。

ページ上部へ戻る