八王子神社、八阪神社平野川沿いを辿る

先人の足跡をたどる №149(東成区) 大阪案内人 西俣 稔

今回は千間川跡の南、東成区に散在する神社や史蹟などを辿ります。まずは「東成」の由来から。上町台地の尾根を境に「東に生まれた(成った)」の意味で、「東生」とも書かれていました。反対側は「西成」です。文献上の初見は古く奈良中期の760年で、大正14年(1925)までは東成郡で、明治29年(1896)から大正14年までは、住吉郡も含んでいました。後に人口増加で昭和7年(1932)旭区を分区し、さらに昭和18年城東区、都島区を分区しました。

地下鉄緑橋駅前、車の往来が激しい中央大通を南西に行くと、平野川へ斜めの道が通ります。明治18年(1885)の地図を見ると、田んぼを通る畦道であったことが分かります。近年の東西南北の道が多い中、田園地帯の痕跡が残ります。しばらく南下すると中本4丁目に八王子神社が鎮座します。昭和40年に社殿が新築され、八王子大神、素盞嗚命スサノオノミコトなどを祀っています。「八王子」は素盞嗚命の子、五男三女を合わせた名です。境内の石碑に刻まれた文の要旨です。「創建は不明だが社伝では応神天皇(300年頃)といわれ、孝徳天皇(600年前半)が味経宮あじふのみや(摂津市別府べふ)におられた頃、高麗狛一対を献納されたそうである。当地の産土神で八王子稲荷大明神として、崇められています。…この石材は、暗越奈良街道起点の二軒茶屋前に流れていた猫間川に、宝永八年(1711)架設した石橋を用いている」。

京橋の蒲生墓地、大笹吉五郎の墓

鳥居の寄進者に「大笹吉五郎」と刻まれています。本連載44号(2010年)に記しましたが、JR京橋駅近くの蒲生墓地にある「人ニハー一」と刻まれた、謎かけ墓石を建てた人です。縦棒「ー」を心棒に例え、「心棒→辛抱」と読み、人は金の亡者になったらダメ、「人は辛抱が一番」の意味です。なんと驚き涯「金」の漢字をバラバラにすると「人ニハー一」になるのです。大笹氏は北浜の株相場師と、今里の花火製造業の説がありましたが、この鳥居によって今里の花火業と分かったのです。

八王子神社のある「中本」は明治22年に森・古屋敷地・中道・本庄・西今里・中浜の6村が合併してできました。由来は6村の内、中道・中浜・本庄の「中・本」を採りました。ありふれた町名ですが、脈々と村名の一部が継承されています。

さらに平野川の中本橋を渡ると、「中道」です。鎌倉時代からある地名で、当地の中心を通る暗峠奈良街道に由来します。当地は低湿地で耕作には適さずしろうりを特産とし、鯰や鯉などの淡水漁業も盛んでした。大阪砲兵工廠に近く明治28年に城東線(現JR環状線)が開通、玉造駅もでき宅地化や中小工場地帯と化していきます。

八阪神社

平野川沿いを南下すると、素盞嗚命と菊理姫命きくりひめのみことを祀る八阪神社に着きます。境内石碑の要旨です。「付近の中道村字法性寺に寛仁かんにん元年(1017)、関白藤原道長が、別邸を造り、牛頭ごず天皇、白山はくさん権現を鎮守として奉納したのが起源、天正十二年(1584)この地に移転。明治42年(1909)境内から暗越奈良街道参詣道が通され、社殿を東向きから南向きに変えた…この石材も(八王子神社と同じ)、二軒茶屋前の石橋で…大正13年撤去されその時六枚の石材が寄贈されている」

親子の神馬

境内に神馬しんめ舎があり親子の白馬、二頭を置いています。足元に子を連れた狛犬もあり微笑ましい風景です。また明治43年に建った燈籠に「西区三軒家」と、寄進者の住所が刻まれています。「三軒家」は大正区では?明治30年までは西成郡三軒家村で同年西区に編入され、大正14年港区になり、さらに昭和7年港区から分区し大正区になりました。寄進された時は西区だったのです。こんな離れた処に、大正区の変貌が確認できるのです。参詣道を通ると「八阪温泉」があり、大阪城公園でジョギングした人達も利用しています。

「西区三軒家」と刻まれた燈籠

まだ東成区の連載は途中ですが、森ノ宮から連載どおり散策し、八阪温泉でひと風呂浴びて、近くの玉造駅前居酒屋でビールっていうのも一興かもです。

次回は暗越奈良街道からです。


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