八王子神社、八阪神社平野川沿いを辿る
- 2019/1/15
- 先人の足跡をたどる
先人の足跡をたどる №149(東成区) 大阪案内人 西俣 稔
今回は千間川跡の南、東成区に散在する神社や史蹟などを辿ります。まずは「東成」の由来から。上町台地の尾根を境に「東に生まれた(成った)」の意味で、「東生」とも書かれていました。反対側は「西成」です。文献上の初見は古く奈良中期の760年で、大正14年(1925)までは東成郡で、明治29年(1896)から大正14年までは、住吉郡も含んでいました。後に人口増加で昭和7年(1932)旭区を分区し、さらに昭和18年城東区、都島区を分区しました。
地下鉄緑橋駅前、車の往来が激しい中央大通を南西に行くと、平野川へ斜めの道が通ります。明治18年(1885)の地図を見ると、田んぼを通る畦道であったことが分かります。近年の東西南北の道が多い中、田園地帯の痕跡が残ります。しばらく南下すると中本4丁目に八王子神社が鎮座します。昭和40年に社殿が新築され、八王子大神、素盞嗚命などを祀っています。「八王子」は素盞嗚命の子、五男三女を合わせた名です。境内の石碑に刻まれた文の要旨です。「創建は不明だが社伝では応神天皇(300年頃)といわれ、孝徳天皇(600年前半)が味経宮(摂津市別府)におられた頃、高麗狛一対を献納されたそうである。当地の産土神で八王子稲荷大明神として、崇められています。…この石材は、暗越奈良街道起点の二軒茶屋前に流れていた猫間川に、宝永八年(1711)架設した石橋を用いている」。
鳥居の寄進者に「大笹吉五郎」と刻まれています。本連載44号(2010年)に記しましたが、JR京橋駅近くの蒲生墓地にある「人ニハー一」と刻まれた、謎かけ墓石を建てた人です。縦棒「ー」を心棒に例え、「心棒→辛抱」と読み、人は金の亡者になったらダメ、「人は辛抱が一番」の意味です。なんと驚き涯「金」の漢字をバラバラにすると「人ニハー一」になるのです。大笹氏は北浜の株相場師と、今里の花火製造業の説がありましたが、この鳥居によって今里の花火業と分かったのです。
八王子神社のある「中本」は明治22年に森・古屋敷地・中道・本庄・西今里・中浜の6村が合併してできました。由来は6村の内、中道・中浜・本庄の「中・本」を採りました。ありふれた町名ですが、脈々と村名の一部が継承されています。
さらに平野川の中本橋を渡ると、「中道」です。鎌倉時代からある地名で、当地の中心を通る暗峠奈良街道に由来します。当地は低湿地で耕作には適さず越瓜を特産とし、鯰や鯉などの淡水漁業も盛んでした。大阪砲兵工廠に近く明治28年に城東線(現JR環状線)が開通、玉造駅もでき宅地化や中小工場地帯と化していきます。
平野川沿いを南下すると、素盞嗚命と菊理姫命を祀る八阪神社に着きます。境内石碑の要旨です。「付近の中道村字法性寺に寛仁元年(1017)、関白藤原道長が、別邸を造り、牛頭天皇、白山権現を鎮守として奉納したのが起源、天正十二年(1584)この地に移転。明治42年(1909)境内から暗越奈良街道参詣道が通され、社殿を東向きから南向きに変えた…この石材も(八王子神社と同じ)、二軒茶屋前の石橋で…大正13年撤去されその時六枚の石材が寄贈されている」
境内に神馬舎があり親子の白馬、二頭を置いています。足元に子を連れた狛犬もあり微笑ましい風景です。また明治43年に建った燈籠に「西区三軒家」と、寄進者の住所が刻まれています。「三軒家」は大正区では?明治30年までは西成郡三軒家村で同年西区に編入され、大正14年港区になり、さらに昭和7年港区から分区し大正区になりました。寄進された時は西区だったのです。こんな離れた処に、大正区の変貌が確認できるのです。参詣道を通ると「八阪温泉」があり、大阪城公園でジョギングした人達も利用しています。
まだ東成区の連載は途中ですが、森ノ宮から連載どおり散策し、八阪温泉でひと風呂浴びて、近くの玉造駅前居酒屋でビールっていうのも一興かもです。
次回は暗越奈良街道からです。