大阪砲兵工廠跡、千間川跡 森ノ宮駅周辺を辿る

先人の足跡をたどる №148(中央・城東・東成各区) 大阪案内人 西俣 稔

今回から東成区をご案内しますが、まずはJR森ノ宮駅周辺を辿ります。駅名は西すぐにある森ノ宮神社からです。正式名をかささぎ森宮と呼び590年頃、聖徳太子が父の用明天皇を祀り、創建したと伝わります。朝鮮から渡って来た、鉄鋼業の祖である吉士盤きしいわかねが当社に朝鮮鳥の鵲を献上し、この森で飼育していたと言われています。境内は玉造筋の拡幅で縮小されました。神木に囲われた落着いた佇まいです。当社から約2km離れた城東区天王てんのうでんの町名は、当社用明天皇の神田が由来です。昭和50年初期、大阪市は「町名改正」を求めましたが(鴫野東になったかも?)、住民が由緒ある町名を守り抜いたのです。

鵲森宮

森ノ宮駅東沿いの、ゆるやかに蛇行している道が猫間川跡です。由来は東すぐに流れていた、旧平野川が古くは百済川と、猫間川は高麗川と呼ばれていて、高麗こま猫間ねこまに訛ったと伝わります。阿倍野区北東付近の上町台地が水源で、約7kmあり、ほぼ環状線沿いを流れ、大阪城公園駅北で平野川と合流していました。大坂の陣で平野郷から大坂城へ、小舟で兵量を運んでいた川です。

大阪砲兵工廠碑

中央大通を渡るとUR森ノ宮団地敷地に「大阪砲兵工廠跡」の碑が建ちます。この付近は陸軍の訓練場でした。砲兵工廠の起こりは明治3年(1870)明治政府による富国強兵政策のもとで、造兵司として大阪城内に設置。日清日露戦争から第二次大戦に至る軍拡の中で、拡張に拡張を重ね、終戦の年には約36万坪(甲子園球場約30面分)の敷地に、200近い軍需工場と約6万4千人が徴用されていた、アジア最大の軍需工場でした。

終戦の前日8月14日、米軍は161機のB29を砲兵工廠へ飛来させ徹底的に破壊しました。その時に落とされた1トン爆弾が京橋駅に命中、ガード下などに避難していた、500人を超える市民と、砲兵工廠の工員を合わせ千人を超える人達が、一瞬にして命を奪われました。その体験を綴る名著「大阪砲兵工廠の8月14日」を読みました。編者であり自らも空襲被害者で、大阪大空襲研究の第一人者、小山仁示は文末にこう記されています。「…一夜明け翌15日になれば、平和な日がすごせることを知らされず、尊い生命を失った人々のことを思うと、胸が締め付けられ、涙が出てくる…」。

千間橋の親柱が残る

工廠碑を東へ進めば平野川で日吉橋が架かります。橋名は豊臣秀吉の幼名?徳川の時代に架かった橋、敵の名を付けるはずはない。「日吉」は文字通りめでたい佳名です。道頓堀川の西端にも日吉橋があります。橋を渡り少し北へ歩けば公園や、緑地帯が続きます。千間川の跡で平野川から高井田(現東大阪市)間の農業用水と、舟運の便を図り明治初期に開削されました。長さが千間(約1.8km)あり付いた川名です。東成区と城東区の境界は中央大通と思われがちですが、昭和7年に東成区から旭区が分区する時に、まだ千間川は流れていて境界となり、さらに昭和18年旭区から城東区が分区しました。昭和42年から順次埋め立てられ、同47年に千間川公園として整備されました。明治18年の地図を見ると、平野川との合地点が斜めになっていて、今も道筋も斜めになっています。平野川からの水量調整のため曲げたのでしょう。公園前の緑地帯に「千間橋」親柱が残ります。付近住人の橋への感謝の気持ちです。

猫間川跡の道筋

千間川と緑橋の説明板

川堤防跡の南に石畳がありますが、古民家はなく新しい家が並びます。空襲で焼け石畳だけが残ったのです。しばらく歩くと今里筋に、地下鉄駅名にもなった、大きな「緑橋」顕彰碑が建ち、解説と共に千間川全体の地図も添えています。歴史を継承する大切なことを成されています。東約1kmには深江橋が架かっていて、これも地下鉄駅名となっています。千間川や橋がなくなっても、痕跡が残るのです。

次回は八王子神社からです。


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