和洋のレトロ建築、地車の発祥、岸和田城天守閣周辺を辿る


先人の足跡をたどる №147(岸和田市) 大阪案内人 西俣 稔

前回の「五風荘」の南に、大正末期に建った十六軒長屋があります。大阪市内にも長屋はありますが、これだけ連なるのは見たことがないです。四軒ごとに空地があるのは、火災の際に類焼を防ぐためです。レトロな「高名ラジオ店」の看板がある家や、長屋を活かした料理屋もあります。少し城へ戻ると、大正末期の洋館が並びます。屋根の下部が垂直に折れているのが特徴で、フランスの建築家の名からマンサード長屋と呼ばれています。和洋両方の建築を見られるのも岸和田の魅力です。

大正末期築の十六軒長屋

三の丸神社にある地車発祥の絵

洋館の少し南に三の丸神社が鎮座します。元禄時代(1700年頃)岸和田藩主岡部長泰が、京都の伏見稲荷を城内三の丸に勧請し、領民に広く参拝させていました。当社の秋の収穫祭である稲荷祭りで、賑わしたのが地車の起こりと伝わります。奥の祠に絵が展示されています。宝永元年(1704)現大阪市と堺市等の境界を成す、大和川の付替え工事が行われ、岸和田の領民も携わっていました。祭りを盛り上げるために、その際の土を運ぶ荷車に板を張り、その上で踊ったのが起こりです。小さな荷車が今は巨大な地車へと発展していったのです。天守閣西の石垣から紀州街道を見渡すと、古民家の瓦の屋根が並び江戸時代と変わらぬ風景を、鳥瞰できます。

城壁から観る城下町の風景

天守閣の東には地車宮入の神社、きし神社が鎮座します。室町時代初期1362年、付近の沼村(現沼町)に創建され、京都八坂神社より素戔嗚尊スサノオノミコトを勧請しました。1580年代、豊臣秀吉の叔父、小出秀政が岸和田城の鎮守神として、城内へ遷しました。今は縁結びの神社として、多くの参拝客が訪れています。天守閣大手門前が二の丸公園で、伏見櫓跡があります。1620年代伏見城が廃城となり移築したものです。大手門前に、猪伏いぶせ山と書かれ、小高い丘が猪が伏せている様から付き「猪伏山千亀利ちきり城」の別称となっています。因みに和歌山城は虎伏城とも呼ばれています。

大手門をくぐり坂を上ると、不思議な石物が並ぶ「八陣の庭」に目をみはります。庭園設計者の第一人者、重森三玲氏の設計です。中国三国時代の軍師、諸葛孔明しょかつこうめいの八陣法をテーマに、大将を中心に天、地、風、雲、龍、虎、鳥、蛇をイメージし配置したものです。

さて岸和田城の沿革ですが「岸和田史跡めぐり」の要旨です。築城の時期、築城主などは不明で、文献では1500年半ば以降、登場します。1560年頃には泉州を統治していた、大名松浦氏が居城しています。織田、豊臣の時代は敵対する雑賀、根来など紀州勢との戦の前線拠点となります。

秀吉による紀州平定以降、小出秀政が天正十三年(1585)が入城し、天守など城郭が整備されます。慶長二年(1597)に五層の天守ができ、同七年頃に紀州街道が通されました。天守の形はいくつかの絵図が残りますが、詳細は不明で、おそらく腰板貼の黒っぽい天守だったと考えられます。元和五年(1619)に松平康重が居城、二の丸を造り海岸線に防潮石垣を築くなど、城郭城下町が完成します。寛永十七年(1640)に高槻城から岡部宣勝が移封いほうし、明治維新まで13代にわたり城主を務めました。

天守は文政十年(1827)の落雷で焼失し、翌年に再建を幕府に願い出ますが、倹約令が各藩に出され、極度の財政難の中で藩政中は再建されませんでした。戦後、市民らの熱い要望が寄せられ、昭和29年(1954)に鉄筋コンクリート造りで三層の天守閣が再建され、同44年に城壁と櫓も再建されました。

秋空にそびえる天守閣

おひらきに「岸和田」の由来です。建武元年(1334)楠木正行の配下和田にぎた高家たかいえが当地を治め「岸の和田」と呼ぶと言われ、また海から繋がる池、ワンド(湾処)が訛った説もあります。私は朝鮮語で海を「パタ」といい、「パタ→ワダ」に変化したとの仮説を持っています。和歌山の「加太」も「パタ」の訛りと伝わり、隣の高石市も渡来系の高師が高石に訛ったものです。…岸和田を4話綴りました。岸和田城天守閣へ登り、城下町や遠くの淡路島や明石大橋をご覧下さい。歴史豊かな岸和田へ、幾度も訪ね案内する想いを抱き、城を後にしました。

次回からは暗越奈良街道など東成区をご案内いたします。

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