こなから坂・吉田松陰滞在地・蛸地蔵 岸和田城下町を辿る


先人の足跡をたどる №146(岸和田市) 大阪案内人 西俣 稔

前回は鍛冶屋町などをご案内しましたが、いよいよ岸和田城内へ入ります。敵の侵入に備えカギ型に曲げた堺口門跡を入ると、本町で城下町の中心地です。すぐに内町門跡でここもカギ型で二重に防御していました。街道筋ならではの和菓子や昆布屋など老舗の店が並びます。少し進むと左手に岸和田市役所や城の石垣が見えます。

「こなから坂」

市役所前の坂が「こなから坂」で、「小半」と書き、半分の半分(90度の4分の一)の傾斜のことです。だんじり祭の宮入直前の見せ場で、よく放映されている所です。坂下には江戸末期の古地図が立ち、城下町の全容を分かり易く展示されています。さらに進むと「千亀利ちきり寿司」、旅行業者での案内でお世話になった店。「千亀利」とは岸和田城の別称で、本丸と二の丸が縦に並ぶ様が、糸を巻く道具「ちきり」に似ていて名付けられました。紀州街道のこの付近から古民家が50軒ほど向かい合い、歩けば歩くほど江戸時代へタイムスリップしたかのような風情です。

古地図。本丸と二の丸の並びが「ちきり」に似る。

その一軒「久住くすみ邸」に幕末の嘉永六年(1853)、吉田松陰が滞在していました。松陰は長州藩の尊王攘夷者で、開国を迫る外国船からの大阪湾岸の警備状況視察のために訪れました。松陰は滞在中、藩士らと茶を飲み、せんべいをかじりながら、徹夜で時勢論や詩文論を議論しました。久住邸の前に「まちづくりの館」があり、案内の休憩でよく利用しています。古地図や古い町の写真などが貼られ、スタッフが親切に説明して下さいます。

江戸初期からある海岸線の石垣

館の裏を海に下っていくと石垣通と呼ばれ、松平康重が城主となった、元和五年(1619)以降に幕府の命により整備された石垣の一部が残り、岸和田市指定史跡となっています。古地図によれば、石垣は約800ⅿ築かれ、海岸付近の防衛と防潮堤の役割を果たしていました。江戸末期まで外堀として残されていましたが、明治初期に大部分が破壊され、現在はここに長さ9ⅿ、高さ2ⅿが残るのみです。当時の海岸線の位置や城の規模を示す貴重な遺構です。

岸和田本町、紀州街道の街並み

紀州街道へ戻ると、古民家のままの医院や、建ち並ぶ古民家はエアコン室外機や電気メーターまで木で囲い、街道の景観を保っています。辿りついた処は和歌山側の防衛線の寺町、ここに蛸地蔵天性寺があります。地元「まち歩きマップ」からの引用です。…蛸地蔵縁起によれば、天正年間(1573~92)、岸和田城は根来や雑賀衆に攻められ、落城寸前であった。その時、大蛸に乗った一人の法師と数千の蛸がどこからともなく現れ、敵兵をなぎ倒し、城の危機を救った。数日後、城の堀から矢傷、弾傷を無数に負った地蔵が発見され、城内に大切に収められた。その後、天性寺に移され、今に至る。また、境内に奉納された絵巻は蛸地蔵にふさわしく「蛸絵巻」となっており、一枚一枚手書きで描かれている。願をかけるものは「一切タコを食わさない」蛸絶ち、が必要。…因みに天性寺の住職さんは蛸を食べないとか。

天性寺参道前に、懐かしい鉄製の丸い郵便ポストが建ち、昭和レトロな「蛸地蔵商店街」へと繋がります。ゆるやかな商店街の坂を数分歩くと、南海蛸地蔵駅です。駅前にはタコ焼き屋があり、蛸伝説とのギャップが面白いです。駅舎は大正14年(1925)築で南欧風の洋館です。南海本線では大正以前の駅舎は数件しかなく、貴重な建物です。壁に輝くステントグラスには、蛸地蔵縁起を基に造られた、大蛸や大勢の蛸と根来、雑賀衆との戦が描かれています。これも洋館とのミスマッチが微笑ましいです。

蛸地蔵駅を城へ進めば、天守閣前に広大な庭に屋敷が建っています。当地の寺田財閥別邸として、昭和4年から10年の歳月をかけ造られた回遊式日本庭園です。現在は「がんこフードサービス」が料亭「五風荘」として活かしています。私も岸和田案内で利用させて頂いています。正門は奈良東大寺塔頭中性院正門を移築したもので、当地ゆかりの楠木氏にあやかり「楠」の字を分け「南木門」と呼ばれています。秋たけなわ、本記事を手に岸和田を探索し「五風荘」でくつろぐのも一興でしょう。

次回は天守閣周辺です。

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