城外も見所散在 鍛冶屋町・寺町・近代建築・欄干橋
- 2018/9/15
- 先人の足跡をたどる
先人の足跡をたどる №145(岸和田市) 大阪案内人 西俣 稔
コシノ洋裁店を後に海側へ歩き国道26号線を渡ると「五軒家町」、江戸時代に五軒の家か寺が並び付いたのでしょう。角には老舗の和菓子屋があり昭和の風情を残しています。ここからは「岸和田本通り商店街」で「昭和大通」の名が起こり、昭和3年(1928)に昭和天皇即位大典を記念し、同5年にできた通りです。一本目の道が鍛冶屋町筋で、鉄砲などの鍛冶職人が居住していました。中ほどにある道標には、かすれて読み辛いですが「右 和哥山道」(和歌山)「左 わけ くめだ道」(和気・久米田)と刻まれています。和歌山道は紀州街道、和気道は府中街道、久米田道は牛滝街道のことです。和歌山の「歌」が「哥」と刻まれ、常用漢字が出来るまでは、漢字表記が自由であった証です。
鍛冶屋町筋付近には、昔ながらのカメラ店、人形店、美術店、ふぐ博物館などが軒を並べ、古の商いを続けておられます。岸和田を筆頭に泉州は、紡績工場などが林立していた土地で、関連していた大正や昭和初期に建った、近代建築の銀行も多く残り時代の変貌を伝えています。
さらに歩くと寺町があり、石畳を挟み立派な寺が八軒並び壮観な景色です。寺町は岸和田城を守るために、寺を固め城壁や戦時には兵の駐屯地として利用するために築かれ、西側にも寺町があります。同様に大阪城北の北区南森町や、南の天王寺区にも寺が林立し、また現在天守閣を再建中の尼崎城の西にも寺町があります。寺町を抜け商店街へ戻ると、電柱に付けられたスピーカーから演歌が流れ、のんびりとした風情です。スピーカーは各所にあり、だんじり祭の時は各町会の、地車が通る情報を流し、また小中学校の子どもの安全のため、下校時間などを伝えています。
少し海側へ歩くと地車を紀州街道へ曲げる、やりまわしの難所「小門貝源」と呼ばれる曲り角があります。「やりまわし」とは、地車を勢いよく街角を直角に曲げることです。「小門貝源」は角にある小門紙店と、貝源たばこ店の屋号から付き、和歌山方向は「貝源」大阪方向は「小門」です。さて紀州街道ですが、江戸時代は和歌山城から大坂の日本橋までを通じ、堺筋を経て京街道と結び、果ては江戸まで通じていました。徳川御三家、五五万五千石の紀州藩が大名行列で往来していた街道です。 因みに紀州の由来ですが「紀の国」や「紀伊国」とも呼ばれていました。元は「木の国」と書かれ、山林が海岸線まで迫り、木々に覆われた風景から付きました。和銅六年(713)大和朝廷は漢字文化の流入により、地名の二文字化と好字を当てるように命じました。二文字によって地名の区別化を図る目的もあり「木」に厳かな「紀」を当て「伊」や「州」を付けました。和歌山と呼ばれ始めたのは天正十三年(1585)以降のことで、豊臣秀吉の異父弟、秀長が和歌山城を築城し、和歌に歌われた名勝地の和歌浦に対し、城が山手にあることが由来です。
紀州街道を城側へ歩くと、古城川跡に欄干橋が架かっています。古城川とは戦国時代にこの山手にあった城で、岸和田城に対し古城と呼ばれていました。橋には普通、欄干があるのに「欄干橋」その由来は?欄干橋は長さ5mほどで、この長さでは欄干は不要です。しかし紀州藩の大名行列が渡る橋なので立派な欄干が施されました。付近の小橋に欄干はなく、珍しいのでいつしか「欄干橋」と呼ばれました。宝永元年(1704)新大和川が開削されましたが、唯一架設された橋が大和川橋で、これも紀州街道であったからです。
欄干橋前の広い道路は岸和田城の外堀を埋め立て出来ました。道路を渡ると岸和田城内で街道が突き当たり、右に折れています。マス形門と呼ばれ敵の侵入に備え鍵型に曲げ、堺口門がありました。町名「堺町」の由来、隣は魚屋町で漁港が近くにありました。少し歩くと再び曲がり内町門があり二重に城を守っていました。城内に入るまでも見所がいっぱいの岸和田、次回は城内をご案内します。