大阪水道の歴史と柴島(くにじま)の由来


先人の足跡をたどる №143(都島区) 大阪案内人 西俣 稔

阪急崇禅寺駅横の大宮橋踏切を越えると、柴島浄水場です。ここで大阪の水道の歴史を。明治10年(1877)から同20年頃、井戸水の悪水で感染したコレラ・チフスで、大阪でも3万人を超える人々が亡くなりました。そこで安全な水道を敷くことが急務となり、大阪市は明治25年(1892)から3年の歳月をかけ、3年分の予算を注ぎこみ、水道施設を完成させました。水源地はJR環状線桜ノ宮駅北の、総合医療センターや高層住宅などが建つ所です。淀川の水を引込み浄水し各家庭へ送水していました。当時の手紙が残ります。「水道のカランをひねるや、朔出する瑠璃一碧るりいっぺき(青い宝石のような)の清水、思ふままに得られる。ああ、何たる幸福ぞや」。現在は水の供給は普通のことですが、語り継ぎたい言葉です。

都島橋東詰下にある「大阪市水道発祥之地」碑

柴島神社にある「柴島晒ゆかりの地」碑

ところが人口増加で容量が不足し、大正3年(1914)新たに完成したのが、柴島浄水場です。当地はさらしの一大産地で淀川の水を利用し、広い河川敷で干していました。その晒業者の猛反対を受けながら、立ち退かせ出来たのです。安全や便利な水道で市民には感謝されていますが、一方苦難を強いられた人達もいるのです。

昭和20年6月7・13・26日、米軍は水を絶つため浄水場を爆撃しています。実際に沈殿池の一部破損や送水ポンプ場の焼失、送水管の破裂で送水が途絶えました。米軍はここまで綿密な調査をおこない爆撃していたのです。一方の日本は竹槍、防空頭巾、バケツリレーで防戦していました。弾痕が大宮橋踏切前に残ります。コンクリート塀が弾丸で大きくえぐられ、説明板には「…この弾痕は空襲で倒れ、傷つき、死んでいった物言わぬ多くの人々への、生き証人として、私達に語りかけている。」と記されています。

現存する創立当時の柴島浄水場

なぜ「くにじま」と読むか?

浄水場を後に阪急千里線を越えると、古民家が建ち柴島村の風情を残しています。前に柴島神社が鎮座します。柴島村の氏神で、八幡大神、天照皇大神、春日大神を祭っています。さて、放出はなてん杭全くまたと並ぶ大阪難読地名の一つ「柴島」の由来です。「柴」をなぜ「クニ」と読むのか?…どの文献にも明解がありません。ところが私は分かったのです。酒好きな私が深酒しつつ、ぼ~っと、「柴」の字を見つめ「そうや!」と。柴の字を上下に分解すれば、「此の木」。地名辞典によると「柴島」は平安時代からの地名で、クニキ島(クニキ=雑木、炭の原料)と呼ばれ、檞島や国木島、茎島などの表記もありました。そう!クニキに音が近い、「柴(コノキ)」の一文字で当てたのです。音は長い歳月で「キ」が省略され、クニキシマ→クニシマに。与謝蕪村生誕地で有名な都島区毛馬も、芦が茂り芦を髪の毛にたとえ「毛島」が元、島に志馬を当て、「毛志馬」に、さらに「志」が取れ縮まり「毛馬」に変化しました。

この推論のヒントは1993年東京昭島市であった、我が子に「悪魔」と名付けた騒動です。役所とすったもんだの末「亜駆あく」で決着。しかし、この名にまだ親の「こだわり」が!?…「駆」を左右に分解し、右から読めば「亜区馬あくま」!えげつないですね。低俗な話と違い高尚な話を。松尾芭蕉の弟子の作品「此木戸や錠のさゝれて冬の月」(農家の納屋が閉じられる頃はもう冬)の「此木このき」が印刷でつまり、「柴」と読め「この木戸と柴戸(柴でできた貧相な戸)」では、全く意味が違うと、刷り直しを命じた話も残ります。

また、「紫」を分解すれば「此糸このいと」で紫式部のあだ名や「紫」のしゃれ言葉、平安時代には「此木は何の木=柴、此糸は何の色=紫」という言葉遊びもありました。他にも枚方宿場町にある古い屋敷が木南家、楠木家の末裔で、敵からの防御のため、楠を分解し木南に。吹田市役所横を流れる糸田川も「細川」の、山形県寒河江さがえ市柴橋には「此の木橋」が架かります。切りないですね。私の説が毎日新聞連載「わが町にも歴史あり」に載りましたが、異論もなく正論とさせて頂きます。

次回から大阪市を離れ岸和田をご案内します。(柴島の項、本連載第18回、2008年1月号と重複します。)

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