ガラシア夫人・足利義教墓と中島惣社

先人の足跡をたどる №142(東淀川区) 大阪案内人 西俣 稔

足利義教首塚

ガラシア婦人墓

崇禅寺の続きです。木々に囲われた広い境内の奥に、屋根に覆われた二基の墓石が並びます。右が室町時代六代将軍、足利義教の首塚。嘉吉元年(1441)のこと、播磨・備前・美作の守護、赤松満祐が足利義教を暗殺した、「嘉吉の変」が起きました。義教は武士や公家などの粛清を繰り返し、「万人恐怖」と呼ばれる恐怖政治を強行していました。自らの領地を取り上げられ、義教に強い反感を抱いていた満祐は、ついに6月24日、京二条の屋敷で猿楽酒宴に興じていた、義教を襲い首をはねました。現職の将軍が家臣に殺害される例はなく、下剋上の魁と言われています。満祐が義教の首を携え、播磨へ下る途中、主人殺しを後悔したのか、祟りを恐れたのか、この地に埋葬したと伝わります。

左が細川ガラシア夫人の墓。本名は玉(玉子とも)、永禄六年(1563)明智光秀の三女として生まれ、のちに細川忠興と結ばれます。大坂城南玉造の細川家屋敷で居住し、忠興の茶人仲間であるキリシタン大名、高山右近の勧めで入信し、ガラシアの洗礼名を受けます。熱心な信者で貧しい子ども達を屋敷に住ませ、世話していました。好色家の豊臣秀吉が、美貌知性溢れるガラシアを城内へ呼び寄せ、手を握ろうとした時に懐中の短刀を落とし、秀吉の度肝を抜いたとの逸話もある、気丈な女でもありました。

慶長五年(1600)、忠興が徳川家康に従い奥州攻めに参加、その留守を狙い、石田三成はガラシア夫人に城内への人質要求を突き付けますが、断固拒否、そのため三成の急襲に遭います。しかしキリシタンが故に自害できず、家老に障子越しに胸を突かせ、壮絶な死を遂げました。没37歳。焼失した屋敷から宣教師らが、ガラシア夫人や共に殉職した人の遺骨を、戦国時代の武将細川家の菩提寺である、当崇禅寺へ運び納骨しました。義教とガラシア夫人、戦国時代が故に絶命した二人が並び眠っています。

中島惣社

崇禅寺の西すぐに中島惣社が鎮座します。当寺は孝徳天皇の時代、651年長柄の豊碕宮を造営した時に、五穀豊穣を祈り創建したと伝わります。惣社とは総社(親宮)のことで、当地の中島郷(現東淀川、淀川、西淀川各区等)48村の総社でした。昭和20年6月の空襲で無残にも焼失し、同43年に神社関係者の大変な尽力で再建されました。境内は狭いですが、戦前はいかに広大であったかが、参道を辿ると実感できます。本殿から約100mに鳥居が建ち、さらに200mほどにも、鳥居と燈籠が建っています。参道の両側は民家が並びますが、社地であったことが偲ばれます。新大阪駅のある「宮原」の町名が、広域にあるのは惣社の社地(宮原)が由来です。

なぞの踏切名?

阪急京都線や千里線にも、中島惣社ゆかりの踏切名が残ります。私は毎日新聞連載「わが町にも歴史あり」の案内人ですが、読者から質問がありました。「阪急崇禅寺駅の東にある、『ハラカイ踏切』の由来は?」と。早速調べても分からず、阪急広報部に尋ねると、「当社でも分からない」との返事。とういうのは、ハラカイ踏切のある京都線は、大正10年(1921)に開通しましたが、当時踏切の名は地元の人が決めていて、「文書が残っていない」と。諦めない私は周辺の踏切を順に調べていきました。十三駅近くには「女子職踏切」。北に戦前あった、女子職工学校(現英真学園)へ通じ付いた名。「高槻街道」は交わる街道名から。次が「宮筋西」「宮筋東」、当線は水路跡に敷設、その橋名から「大宮橋」。千里線には「大宮通」が。要するに踏切名は地元の人達が利便を考え、当時の風景から付けたのです。とすれば「ハラカイ」は決して「腹がかい?」ではなく、漢字で大や宮が付く踏切が多いので、宮原街道をカタカナにし、「ミヤハラカイドウ」を略して頭と尻を取り、「ハラカイ」と付けたのです。この説を阪急広報部へ伝えると「99.999…%間違いない」とのお墨付きを頂きました。惣社周辺の踏切名から、大正時代は一面田園地帯で、大きな中島惣社が見え、各村から道が通じていた風景が浮かびます。

次回は柴島浄水場です。


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