高射砲陣地遺構と須賀神社跡・崇禅寺を辿る


先人の足跡をたどる №141(東淀川区) 大阪案内人 西俣 稔

中島大水道跡碑を西へ進み、西淡路小学校手間の路地を抜けると、コンクリートの建造物が建っています。B29などを撃ち落す高射砲陣地の砲台で、西淡路(当時国次)高射砲陣地の遺構です。砲台は高さ約5m、12角形で、7㎝高射砲4門を設置していました。潜り抜けた路地の上にもコンクリートが細長く残り、高射砲陣地司令部の遺構で約150~200人の兵が常駐していました。司令部を元に馬蹄形に6基設置され、住宅建設などで4基は撤去、1基は工場の柱として転用、砲台全体が見えるのはここだけで、貴重な戦争遺跡です。

西淡路高射砲陣地の遺構

「昭和の庶民史を語る会」HPの要旨です。…平成16年(2004)頃、砲台は道路予定地にあたり撤去される危機にあった。これに対し「貴重な戦争遺跡を守ろう」と保存運動が起き、市民団体「戦争遺構研究会」が、文化財登録を市と文化庁へ嘆願書を提出、地元の「淡路地域教育協議会」も、「生きた平和教育の材料に」と活動し、阪急淡路駅前で署名活動を行った。保存の要望を受けた市は、「西淡路高射砲陣地研究会」を立ち上げ、平成18年に調査報告をしている。資料は散逸また焼却されているため、聞き取りや現地調査によって、詳細にまとめている。昭和19年6月頃砲台の工事が始まり、20年6月頃に完成していた。…

他の大阪市内の高射砲陣地は、西淀川区野里、此花区酉島・桜島、阪神野田駅前、港区福崎、大正区南恩加島、住之江区平林・住吉公園、西成区岸里、城東区今福、松坂屋(現堺筋、高島屋別館)屋上などで、天王寺公園内の市立美術館に統括する、高射砲第三師団司令部が置かれていました。戦後73年益々、戦争の記憶が風化する中、高射砲陣地を何らかの方法で保存することが求められます。

空襲で焦土化した市内中心部、右上が大阪城。高度3~5千mから爆撃するB29に、高射砲はほとんど成果がなかった。
「大阪奈良戦争遺跡ガイドマップ」(日本機関紙出版センター)より

「須賀神社跡」碑

陣地の前に国次霊園があり昭和56年まであった、刀工来国次からの町名「国次町」の名残です。霊園すぐに小中一貫校で市立「須賀の森学園」があります。近くにあった須賀神社から、当地を「須賀の森」と呼ばれついた校名で、土地の歴史を継承するいい校名です。須賀神社は明治43年(1910)、国策により国家神道を推し進めるため、神社は各村に1つとされ、付近の中島惣社へ合祀しました。跡地は須賀森公園となり、当神社を慕う人達によって建立された、「須賀神社跡」の大きな石碑が建っています。

須賀神社は1330年頃、刀工来一族が森を拓き、天照大神や猿田彦など五神を祀り、村の発展を祈願し創建しました。園内には高さ30m樹齢600年以上の大楠木がそびえ、古の風景を残しています。神社跡を南下すると参道が続き、途中民家の玄関前に「寛政」(1790年代)と刻まれた燈籠が2つ残り、参拝客の足元を照らしていました。さらに蛇行した細い旧道を南下すると、旧山口村で、今は町名改正で西淡路になっています。消えた町名を確認できるのが電信柱の表示で、小さなプレートに「山口東」とあります。電信柱は設置時の町名や街道、神社仏閣などが記されています。みなさん、街を歩く時には電信柱を眺めましょう。ただ余り長く、見ないようにして下さい?住人から「ヘンな人」と思われるかも?

「摂津県・豊崎県県庁所在地跡」碑

前号で紹介した来一族を祀る、永春寺を西へ曲がると広い塀が続きます。阪急駅名由来の崇禅寺です。山門をくぐると、木々に囲われ綺麗に整備され、広々とした境内に心が和みます。寺伝によると、天平年間(729~749)奈良時代の高僧行基により開山したとあります。当寺は明治2年(1869)に摂津県(後に豊崎県)の県庁が置かれた所で、碑が南の塀外にあります。明治4年の廃藩置県で全国の藩が、ほぼそのまま県となり、300を越える県がありました。摂津県は住吉、東成、西成、島上、島下、豊島(現豊中)、能勢各郡の範囲でした。碑には「明治3年3月4日から8月2日までこの地にあった」と記され、同年5月の豊崎県と改め、さらに8月に兵庫県に合併され、わずか8カ月だけあった県庁でした。当時の混乱ぶりがよく伝わります。崇禅寺はガラシア夫人の墓所でもあります。次回ご案内します。

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