先人の苦難 新幹線下の中島大水道

先人の足跡をたどる №140(東淀川区) 大阪案内人 西俣 稔

阪急淡路駅西の商店街を抜けると、新幹線が通ります。数年前の毎日新聞のコラム、タイトルは「そんなに急いでどうするの」だったと思います。リニアモーターカーの話です。記者は昭和39年(1964)新幹線開通の時に書かれた、ある詩人のポエムを引用され。…「新幹線ができる前は、急行『銀河』で東京大阪間を10時間ほどかけ、のんびり旅をした。静岡、愛知あたりの車窓から、農民が一生懸命、耕作している風景が見えていた。都会の人達は、農作業は余り見ないので、農民への感謝の気持ちが湧いてきた。ところが新幹線の速度で、そんな風景が見られなくなった」、さらにリニアは東京大阪間1時間7分、そんなに急いでどうするの。…

桂米朝さんも落語「住吉駕籠」のつかみで「駕籠は贅沢でんな~。二人で一人を運ぶ。どうないです新幹線は1300人を、4人の乗務員で運びます。リニアモーターカーっちゅうもんが出来るそうですな。大阪から東京へ連れと旅しまんな。晴天で富士山がよく見える、新幹線やったら、連れに富士山きれいははよはよ、カメラ、カメラ『バチ』。撮れまんな~。それがリニアやったら、はよはよカメラ、捜しているうちに『東京~東京~』。着いてしまいますがな」、見事に皮肉っていますね。同感です。飛行機があるのになぜ、リニア?環境破壊、一泊の出張が日帰りに、大手ゼネコンは儲かりますが。

さて戦後高度経済成長の象徴「新幹線」ですが、その下には先人の苦難がありました。線路下は延宝六年(1678)に開削された排水路の、中島大水道が流れていました。神崎川と淀川から続く中津川(現淀川あたり)に挟まれた、現東淀川・淀川・西淀川各区には当時22の村があり、一面田園地帯でした。氾濫を防ぐ両川の堤防により、大雨時には逆に雨水がはけず水浸しになり不作が続いていました。そこで大道村澤田久左衛門、新家村一柳太郎兵衛、山口村西尾六右衛門の三庄屋が、雨水を大阪湾に流すために、現淡路駅付近から此花区伝法まで約9.2㎞の排水路開削を幕府に願い出ました。

「中島大水道概略図」(「新修大阪市史」第三巻より。矢印が大水道)

ところが救民救済など考えぬ幕府は不許可に。再三の訴えに「開削の費用は全て農民の負担で」の条件付で許可しました。しかし不作が続き資金難にあえぐ農民は、「少しでも補助を」との再度の訴えは幕府の逆鱗に触れ、許可を取り消される始末に。後がない農民は不許可を無視して約50日で、中島大水道を開削しました。以後、水はけが改善され豊作となり、付近の農民は大いに恩恵を受けました。

幕府の御達しを破った三庄屋は、幕府の査問前に極刑を覚悟し、江戸をにらみつけ割腹したと伝わります。

中島大水道の起点「新太郎松樋」

バス停の名に残る「木川栄橋」

中島大水道の痕跡をいくつか辿ります。淡路駅西の新幹線下が大水道の起点で、一柳太郎兵衛の名に因んだ「新太郎松樋」が建ち、支える石組が大水道礎石です。樋前には「中島大水道跡碑」と、大水道の流れを記した碑があります。新大阪駅を越え南へ折れ、淀川区木川西と野中南境界の道が川筋で、十三中学前に「木川栄橋」が架かっていました。バス停の名に残ります。ここで西へ曲がり十三バイパス下を流れ、さらに西へ阪急十三駅西の十三元今里商店街を抜け、塚本まで続く蛇行した道が川筋でした。JR神戸線と阪神高速を越えた所が八丁橋跡、「八丁」とは今でいう工区で「八丁目」にあたり、開削時付近の村が担当していました。跡地前にある銭湯「八丁温泉」に名を留めています。

英雄と崇められる三庄屋の祠は、新大阪駅南にある自害跡「さいの木神社」にあります。祠に立ち止る人もなく、その後ろの中島大水道跡を時速300㎞の新幹線が走っています。正に先人の犠牲の上に、今があることを物語っています。

三庄屋を祀る「さいの木神社」

次回は貴重な戦争遺跡です。


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