大阪市摂津市の境界と淡路周辺を辿る

先人の足跡をたどる №139(東淀川区) 大阪案内人 西俣 稔

今回から東淀川区を辿ります。大正14年(1925)に大阪市の拡張で、西淀川区とともに編入。それまでは西成郡、一面田園地帯で多くの村が点在していました。東淀川区がなぜ西成?と思われるかも。奈良時代にできた郡で、上町台地の尾根を境に、東に成った(生まれた)地域が東成郡、西が西成郡。その範囲は広域で上町台地から時計廻りに、淀川右岸の現東淀川区も含んでいました。明治18年(1885)の地図に「西成郡」と記されています。

安威川に架かる「新京阪橋」

まずは阪急京都線相川駅から歩きましょう。西に出ると安威あい川が流れ架かる橋が「新京阪橋」、なぜここが京阪?相川駅(当初は吹田町駅)ができたのが、昭和3年(1928)で、当時この路線は新京阪鉄道(現京阪)と呼ばれ付いたのです。戦時下の昭和18年(1943)国策で、阪神急行電鉄(現阪急)と新京阪が統合させられ「京阪神急行電鉄(現阪急)」となり、戦後すぐに当路線は阪急に譲渡し、現在に至ります。橋名から電鉄の歴史が見られます。「相川」は安威川の当て字と言われますが、当地は安威川と神崎川の合流地点で、その地形も由来でしょう。安威川は高槻市総持寺辺りで茨木川と合流し、「安威」も「合」の当て字です。因みに高槻の成合や、大正区の落合の渡し、神奈川県愛甲(合う河の当て字)など、同じく川の合流地点が由来です。

安威川を上流へ向かうと、大阪経済大グランド前の道が大阪市東淀川区と摂津市の境界で、小高くなっています。この境界がなんと奈良時代784年、長岡京遷都に伴い摂津国の官僚、和気清麻呂が掘った水路跡で、水路を境に当時の西成郡と三島郡の境界でした。開削前は安威川と淀川は平行して流れ、船の往来ができませんでした。そこで安威川からも長岡京へ行ける水路が開削され、長岡京の発展や、「土佐日記」などにも記された「江口の里」の賑わいに寄与しました。ところが蛇行した当堀川が洪水の原因となり、明治11年に埋め立てられ境界として残るのです。同年直線の新神崎川が開削され、この工事に携わったのが、藤田伝三郎なのです。境界から奈良時代から脈々と繋がる歴史が垣間見えます。

奈良末期の水路跡が、大阪市(左側) 摂津市(右側)の境界(矢印)、河口に新神崎川が流れる

阪急淡路駅案内板、1番ホームがない?

次に阪急淡路駅を降ります。同駅は1番ホームがありません。何故?昭和29年(1954)当時の京都線は天六から京都まで運行し、十三線が支線として梅田駅から淡路駅まで折返し運転していました。同年、梅田から京都へ行けるようになり、十三線は廃線となりました。この十三線が1番ホームでしたが、番号を動かすと混乱するので欠番となったのです。「新京阪橋」同様、疑問から電鉄の歴史を知れます。

さて「淡路」の由来ですが、付近は加島や、柴島くにじま御幣島みてじまなど、淀川や神崎川の土砂で形成された島が点在していました。その一つが淡路(島)で、菅原道真が大宰府左遷の際に瀬戸内海の淡路島と、間違って上陸したとの、説があります。あの学問の神様が?これは後に作られた伝承でしょう。ある本に当地から淡路島への航路があったのであろう、と書いていましたが、私も同意見です。淡路島の由来も語っておきましょう。現徳島県は粟の産地で「粟の国」といわれ、阿波は当て字です。本土の旅人が阿波に旅する時に通るのが、淡路島で「阿波に向かう路(淡も当て字)」が由来です。北端に淡路町があります。因みに木曽へ向かうので木曽路です。

永春寺に建つ「国長、国次」の碑(東淀川区淡路1)

西口を出ると商店街があり、途中「国次米穀店」が。この「国次」から当地の深い歴史に導かれます。現西淡路は昭和55年まで国次町でした。国次とは名刀を造る職人で、来一族と呼ばれ京都で居住していましたが、南北朝戦乱の混乱を避けるため、1330年頃、来国安、国長、国重、国次などが、この地に移り住んだと伝わります。水運の時代で淀川に面し、京や中国地方、紀州などへ通じる要所であった土地であったからでしょう。来一族の居住地跡は永春寺となり、門前に「来国長、来国次菩薩寺、永春寺」の石碑が建っています。米屋に残る「国次」、他にも国次墓地が商店街の外れにあり、次回に訪ねます。


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