中津川の痕跡と300年以上続く一夜官女祭

先人の足跡をたどる №138(西淀川区) 大阪案内人 西俣 稔

中津川の先(鼻)が由来の鼻川神社の鳥居を東へ出ると、道筋が弓なりに曲がっています。埋め立てられた中津川跡で、西側が川跡で宅地化し新しい家が建ち、東側は新家といわれる中津川東岸の集落跡で、古民家や蔵が建っています。少し歩くと石垣が残り、大阪市が設置した中津川の説明版には、明治18年(1885)の地図が示されています。埋め立てや新淀川開削に携わった、多くの先人の功績を今に繋ぐ、大事なことを成されています。ネットなどで航空写真を見ると、道筋や家の並びにくっきりと中津川の川筋が見られます。

明治18(1885)年の地図 蛇行する中津川。野里村の北に「槲の橋」(①)がある。斜めの直線(②)は私が加筆した、新淀川(明治43年開削)の北岸

次は中津川跡の西岸まで行きましょう。姫島通を越えると、五角形のいびつな形の野里公園があります。今は市民の憩いの場ですが、戦時下にあった高射砲跡陣地跡で、付近の軍需工場を守るために設置されました。私はこの場でも、戦後73年益々風化していく、戦争の悲惨さを語り続けています。公園すぐに野里商店街があり、ここにも石垣が並び中津川跡の西岸で、東岸から約300mあり川幅が分かります。石垣のある野里住吉神社は、鎌倉時代の1382年に足利義満が創建し、海岸線の当地が開発され漁民が定着し海の神様、住吉社を祀ったのが起源と伝わります。

中津川西岸の、住吉神社の石垣

当社には全国的に珍しい一夜官女と呼ばれる祭りが、毎年2月20日に催され、「大阪府指定文化財」に指定されています。祭りの概要です。……この地に伝わる、娘を神に捧げる人身供養の伝説を、神事として継承している。まず氏子の代表である宮座からその年の主宰者を決め、くじで決めた生贄いけにえの官女の家に矢を持っていく。昔は娘の家に白羽の矢が立ち、いやおうなしに引っ張られたが、今では官女になるのが名誉で、八歳から十歳の娘、七人(一夜官女)が選ばれる。白羽の矢があった家(現在は区の施設など)では、七つの膳(夏越なごし桶)には鯉、鮒、鯰、餅、酒、小豆、干し柿、豆腐、大根、菜種葉が盛られている。当矢の式(親子別れの杯)のあと、桶を持つ随行員に連れられ、一夜官女が神社へと向かう。神社に就くと本殿では神楽が奏上され、お供え物を神に上納する儀式が行われる。祭事が終わると直会なおらい(注1)があり、ゴンタクロウ汁(注2)を全員で頂く。

一夜官女祭 住吉神社(西淀川区発行「わがまち西淀川」2005年版より)

祭りの起源は武者、岩見重太郎の伝説といわれる。その昔、中津川沿いで低湿地の野里村は、風水害と悪疫が続き、古老たちは村を救うために、毎年白羽の矢が打たれた家の娘を、神に捧げることがあった。ある年にこの儀式に怒りを覚えた重太郎は、身代わりとなり唐櫃からひつに自ら入り、村を救ったと伝わる。……人身供養の悲しい話ですが、現在では地域の安全と住人の幸せを願う、祭りとなっています。3年前に一夜官女を観に行きました。着物姿の母に連れられた、娘(一夜官女)が厳かに練り歩く風景に、時がゆっくりと流れ感動しました。夏越桶には元禄十五年(1702)と書かれ、少なくとも300年以上、祭りは脈々と継承されています。

「槲の橋・野里渡し跡」碑

神社前の蛇行している道が、中津川の西岸にあたります。すぐ角のタバコ屋前に「かしわの橋・野里の渡し跡」が建ち、明治18年の地図に槲の橋が記されています。当時、中津川に架かる橋は十三橋かここのみで、野里村が栄えていた証です。碑からJR塚本駅手前の商店街へ向かう道が橋跡で、想像上の散歩ですが中津川を渡ったことになります。現在家が建ち並び中津川の痕跡は、見る術もないですが、わずかに商店街手前の高低差に残ります。大阪北西の端、西淀川区を訪ねました。次回からは北東の端、東淀川区をご案内します。

 

(注1)神事の終わりに神へのお供え物を、参加者一同で食する儀式

(注2)鯰、鯉、鮒、餅、小豆などを白味噌で味付けし、豆腐、大根、菜種葉で煮た汁


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