住民憩いの大野川緑陰道 町名に継承される歴史


先人の足跡をたどる №137(西淀川区) 大阪案内人 西俣 稔

歴史案内で古の話を語っている道中、大和田街道途中に「関西スーパー」があり、ふと現実に戻ります。スーパー前の道が大きく東へ曲がり、明治18年(1885)の地図を見ると、街道の曲がりと分かり、変わらぬ道筋が残っています。少し南下すると大和田と姫島を繋ぐ大島橋、下が川ではなく道路に。石段を下りると道の真ん中が川のイメージで水色に、実は埋め立てられた大野川跡で、昭和54年(1979)に大野川緑陰道として整備されました。

住人の憩いの場、大野川緑陰道

大野川は新淀川開削に伴い明治40年(1907)前後に、現東淀川区淡路から流れていた中島大水道と繋ぎ、付近工場などの水運に利用されていました。ところが昭和45年に開通した国道43号線によって、大阪湾と分断され水流が滞り、また工場排水で巨大なドブ川と化し、昭和46年から順次埋め立てられました。しかし川跡に高速道路や石油パイプラインの建設が計画され、公害で散々苦しめられた住民らが、運動を起こし撤回させ緑陰道となったのです。長さ約3.8㎞、車は通れず歩行者と自転車専用道路で、高木1万本、低木12万本が植えられました。緑陰道では、ジョギングや犬の散歩、木陰で将棋などに興じる人達が多く見られます。私は大阪24区全てを案内していますが、緑陰道はできた経緯も含め、他の区にはない住民の憩いの空間です。

緑陰道の途中、大和田街道沿いに姫嶋神社が鎮座し、阿迦留比売あかるひめ命と住吉大神を祭っています。町名に残る姫島にはアカルヒメの伝説があります。奈良時代初期の地誌「風土記ふどき」、「比売嶋ひめじま松原(現姫島)」の項には「応神天皇の世(3世紀後半)に新羅の国の女神がその夫(天之日矛あめのひぼこ)から逃れ、筑紫の国の伊波比いはいの比売嶋(現大分県国東くにさき半島沖の姫島)に住んでいたが、夫が尋ねて来るのを恐れて、さらにうつり来て遂に此の島に停まりき」とあり、当地を元に住んでいた「姫島」としたと伝わります。往古の伝説が今も神社や町名に継承されているのです。

姫嶋神社

神社を後に阪神電鉄の高架をくぐると町名が「姫里」、姫島と野里の間の田地が宅地化し、二つの町名の一文字を併せました。道が真っすぐで古民家がなく、工場や高層住宅が建ち並び、田地であった証です。国道2号線を南下すると「花川」の町名「花」は「鼻」の当て字で、鎮座するのが「鼻川神社」。当社は明治30年(1897)新淀川開削で河川敷となり、同43年姫嶋神社に合祀され、大正末期に独立し昭和9年(1934)に社殿を再建しました。「鼻」とは崎(先)のことで、旧中津川の崎にあたり「鼻川」と命名。

鼻川神社

西成大橋の親柱

境内に「西成大橋」親柱が保存され、当地が大正14年(1925)まで西成郡であった痕跡で、同年大阪市に編入されました。西成大橋は新淀川開削で明治29年に架設、西成郡は奈良初期からある郡名で、上町台地の尾根を境に「西に成った(生まれた)」の意味で、東部は東成郡。西成郡は広域で時計周りに淀川の右岸まであり、現東淀川区も含んでいました。西成大橋は長さ約730mもありましたが、幅はわずか約5.5mしかなく、大正15年阪神国道(現国道2号線)開通に伴い新橋が架けられ、淀川大橋と命名されました。橋にも地名の変貌や川の開削、新道の開通が反映しているのです。

西淀川から離れ、「鼻川」の「鼻」に因む神戸市の話を、中央区にあった花隈はなくま城、「花隅」も当て字で六甲山丘陵が瀬戸内海に突き出ている様が「鼻」で、山の尾根が「隅」で付いた地名です。織田信長が石山本願寺勢力と毛利家の接触を分断するために、山陽道(中国街道)が通る丘陵と海の僅かな土地に、天正二年(1574)荒木村重に命じ(異説あり)、城を築きました。

鼻川と花隈の話、脈絡がないようですが、鼻川神社すぐの大和田街道から、尼崎・大物だいもつで中国街道と交わり花隈城跡でまで通じています。また花隈城を築城した荒木村重は、大和田城を攻略しています。往古、山や野畑が一面に広がり、わずかに通された街道を往来していた、先人の足跡が見えてきます。

次回は中津川の残像からです。

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