元心斎橋鉄橋・大和田城跡大和田街道を辿る

先人の足跡をたどる №136(西淀川区) 大阪案内人 西俣 稔

大和田には珍しい漁港(船溜)があります。大阪市内に漁港?と思われる方も。大阪府のHPによると、他にも旧大野川河口(西淀川区福町)、伝法入堀(此花区)、港地区(港区福崎)、柴谷船溜(住之江区)があります。大和田船溜には土地の繁栄を祈願する白天宮が鎮座し、鳥居の横には数隻の漁船が浮く、風情ある景観です。

旧大和田村を出ると大和田街道の碑が建ち、村と街道が交わる三角地点に地蔵があります。村の入口に地蔵は付き物で、旅人の安全祈願や伝染病の魔除け、子どもの健やかな成長などを願っています。余り知られていない「地蔵」の意味ですが、サンスクリット語(梵語)で「クシティ・ガルバ」の和訳です。クシティは「大地」、ガルバは女性の「子宮」の意味で、「大地」を「地」、「子宮」を「蔵」にたとえ「地蔵」と。大地も子宮も生命を生み出し、仏教の信仰の対象であったからです。意味を知って拝むと、よりご利益がありそうです。

「大和田街道」碑

地蔵前に「大和田街道」碑が建ちます。梅田街道とも呼ばれ起点は北浜の難波橋北詰、海老江から西成大橋(現淀川大橋)、姫島、大和田、出来島、佃、左門殿さもんど川を渡り尼崎・大物だいもつで西国街道と交わり、山陽道から下関まで通じていました。街道の碑はJR福島駅北の立ち飲み「とらや」前や、阪神ホテル北にも建っています。

地蔵の北一本の道が「大和田」と「出来島」の境界になっていて、町の境界は河川跡も多く、ここは大和田川跡です。架かっていたのが新千舟橋、元心斎橋鉄橋を移設した橋で、こういう経緯です。江戸初期1625年に岡田心斎らが開削したのが長堀川で、木橋の心斎橋が架かっていました。明治6年(1873)にドイツ製の鉄橋に架け替え、さらに同41年(1908)石橋に替わりました。頑丈な鉄橋は移築され再利用されます。まずは西区港区の境に流れていた、境川の境川橋として再出発。この川も昭和3年(1928)、橋の架け替えで新千舟橋に利用、さらに大和田川も昭和46年(1971)埋め立てで、鶴見区西三荘にしさんしょう水路の「すずかけ橋」へと4度目のお勤め。この川も1990年暗渠化でまたまた撤去、当時117歳の元心斎橋、もうご引退頂き休ませたいところ~いいやまだまだ、鶴見緑地の「緑地西橋」に移設し現役で活躍中です。まさに「もったいない」精神の極めでしょうか。

明治6年架設、長堀川の心斎橋(上)と元心斎橋の新千舟橋(昭和45年頃)

次に大和田の隣、出来島の由来です。室町時代の寛正二年(1461)、崇禅寺(現東淀川区)の古文書に記された古い地名です。西成郡誌によると、新田開発が良く「出来た」と伝わります。歴史案内でこの話をすると、参加者から「な~んや」の声がしばしば聞こえます。違うのです!当地は海岸線で幾度も台風大雨などで新田が潰れ、今度こそ「よう出来た」との完成の喜びと理解すべきです。現在、意味不明な和製英語や造語が氾濫していますが、先人の表現は率直なのです。出来島南の「福町」、これも水害が絶えない土地が故、幸せを願い「福」としたのです。保険医協会の幸町や、近くの日吉橋も海岸線で同じ想いで命名したのでしょう。

大和田街道を南下すると、大和田小学校塀に「大和田城の由来」の説明版、石碑は校内にあります。当初は大坂本願寺勢力が出城を築き、天正三年(1575)に荒木村重が攻め入り、落城3年後に織田信長が村重の家臣安部仁右衛門に命じ、新たに築城したと伝わります。大和田城は正確な位置や城郭、築城廃城の年など資料が乏しく、不明な点が多く「幻の城」です。わずかに残る文献の記述を紹介します。陰徳太平記(*注1)には「大坂本願寺より大和田に出城を構え、下間しもつま某(*注2)を入置。軍兵を出し郷民を悩乱す。天正三年三月荒木村重大和田城へ押寄、攻崩追打して総構天満迄打破」とあります。大和田城は海に面した海城で、毛利水軍からの防衛で築かれたと考えられています。川や橋や城の跡、漁港、街道沿いには時代を越えた先人の足跡が残ります。

大和田漁港(船溜)

次回は大野川跡からです。

*注1 陰徳太平記…享保二年(1717)に編さんされた古典文学書

*注2 下間氏…代々、本願寺の坊官を務めた、一向一揆の指導者


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