佃漁民ゆかりの地と公害から自然の町へ再生

先人の足跡をたどる №135(西淀川区) 大阪案内人 西俣 稔

「佃漁民ゆかりの地」碑

「佃空襲」鎮魂碑を後に東へ進むと、佃島堤防の道が緩やかに曲り、木々に囲われた田蓑たみの神社に着きます。社伝によると神功皇后が朝鮮出兵の帰途に当地を訪れ、島の海士あま(漁民)が白魚を献上し、その海士を奉ったのが興りとされ、のちの平安初期869年に神社が創建されたと伝わります。境内奥に建つのが「佃漁民ゆかりの地」碑、天正年間(1580年頃)徳川家康が住吉大社を参った後、猪名川いながわ沿いの多田神社(現川西市)へ参拝しようとした際に、船がなく困っていました。見かねた佃漁民が船を出し、多田神社まで便を図りその功績で、のちに江戸の隅田川河口の中洲へ約30世帯が移住し、江戸も佃島と名付けられました。河口で採れる小魚を塩や醤油に漬け、保存食にしたのが佃煮と伝わります。

すなわち佃煮の発祥は江戸ですが、造ったのは現西淀川区の佃漁民であったのです。今年の初め多田神社へ訪れました。猪名川の川岸は海抜50mほど、船を漕ぐ漁民の苦労と、ここから家康が石段を上がり参拝したのか、と思いを馳せました。 佃には微笑ましい話があります。当地の佃小学校と東京の佃島小学校が「佃繋がり」で、姉妹校として結ばれました。昭和39年(1964)に大阪佃小学校の教員が、東京佃島小学校を訪れ、翌年PTA役員と児童代表が訪問し、それから現在まで毎年交代で、児童や教員がお互いの学校を訪問し交流会を催しています。伝統的な食を通じた、素晴らしい取り組みです。児童だけではなく、30年ほど前に寄進された鳥居にも、東京都中央区佃の寄進者の名が刻まれています。江戸初期の逸話が今にも継承されているのです。

鳥居を出ると西法寺があり、神社や寺を中心に複雑に道が通された佃村集落跡です。付近は空襲を免れ、古民家や蔵など古い建物が残ります。再び国道2号線を渡り、小高い堤防に立つと神崎川が見渡せます。この風景から町の変貌がよく分かります。神崎川の中洲から始まり一面田園地帯となり、大正時代から工場地帯と化し、公害問題などで工場が移転、現在は高層住宅が建ち並びます。

左が神崎川と千船大橋。右が佃、土地のほうが低い

神崎川は「続日本記しょくにほんぎ」延暦四年(785)の条に「摂津国三国川…」と記され、古代は三国川の川名。「三国」とは山城、摂津、播磨の3つの国をまたぐ川の意味で、豊中市と淀川区に三国の町名が残ります。江戸初期から栄えていた「神崎の渡し」(現神崎橋)から、神崎川の川名に変わりました。「神崎」は両岸にある、西川八幡はちまん神社(尼崎市)か、香具波志かぐはし神社(淀川区)の「神社の崎」が由来でしょう。

区内随所に掲示「海抜マイナス」の表示

西淀川区で特筆すべきは公害問題です。堤防から見ると神崎川の水面と、両岸の土地を比べると水面の方が高く天井川で、市が掲示している「海抜-2m」の様子が明らかです。元々海であった低湿地に、第一次大戦勃発の大正3年(1914)頃から、西淀川区へ工場の移転が増え、公害が発生し始めました。さらに第二次大戦前後を通じ深刻化し、複合公害として被害が増大。複合公害とはまずは地盤沈下、工業用水として地下水を汲み上げていたために、昭和10年と同40年頃の比較で2mも沈下。次に大気汚染、昭和40年頃のスモッグはひどく、街中は夜間と同じで、自動車は昼間からライトを点灯し走っていました。他にも大気汚染による喘息や、水質汚濁、騒音、振動、悪臭、廃棄物の不法投棄など劣悪な環境でした。

そこで公害反対の住民運動が広まり、公害訴訟を起こし平成3年(1991)大阪地裁判決で、大工場群の共同責任を明確に断じました。のちの訴訟でも次々と勝訴を勝ち取り、日本一厳しい公害防止対策を実現し、青空が戻ってきました。その和解金の一部で設立されたのが、「あおぞら財団」で、地域再生のために様々な取り組みを行っています。ここにも一人ひとりの力が結集すると、社会は変えられる教訓を教えています。

煙突が林立、白煙が覆う西淀川区(昭和60年頃)

次回は大和田街道からです。


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