西淀川に「島」の町名が多い訳 佃・大和田の由来と空襲

先人の足跡をたどる №134(西淀川区) 大阪案内人 西俣 稔

今回から西淀川区、先人の足跡を辿ります。当区は大正14年(1925)までは、大阪市に編入されてなく、西成郡の佃村や大野村、大和田村、野里村、御幣島みてじま村など村が点在する一面田園地帯でした。まずは土地の成り立ちから、それは町名が物語っています。当区は中島、西島、ひゃく島、出来島、つくだ(島)、姫島、歌島、御幣島、竹島など、「島」がつく町名がほとんどです。

島が多く描かれた現西淀川区 明治18年(1885)の地図、右上の黒楕円部分が現大和田

万葉集にも詠われた「大和田」住吉神社

他にも海に因む、千船や大和田の町名もあります。「和田」はハングルで「パタ→海」の意味で、「パタ→ワダ」に変化し、「和田」の漢字を当てました。因みに堺市「美木多みきた」の地名ですが、「和田」の当て字は音・訓読みの重箱読みです。平安時代にこれを嫌い、「和」を「にぎわい」と読み略し「にぎ」に、さらに「にぎ→みき」に訛り、「美木」の漢字を当て「美木多」になりました。泉北高速鉄道には「とが・美木多駅」があります。本題に戻ります。当区一帯は古代は海で、淀川から流れてくる大量の土砂で、中洲を形成し島が点在し、島名が町名として残るのです。のちに新田開発され、明治末期からは工場地帯と化していきます。

その島の一つ「佃」から辿りましょう。阪神電鉄本線千船駅を降りると佃で、大阪市内では珍しい島の町です。左門殿川と神崎川に挟まれた中洲で、橋は7本。左門殿川が兵庫県尼崎市との境界で、大阪市最北西部に位置します。人口が1万6千人余り。北区中之島も島ですが、昼間人口は約4万人、夜間人口は約600人に過ぎません。「佃」の由来ですが、なんと平安時代の870年頃からの地名です。西成区史には「古くは田蓑たみの島と称し、貞観年間、佃に改めたと伝え、佃氏をはじめ17軒の開発による」とあります。「佃」とは人偏に田の通り、田を作る職人のことで「つくりだ」が訛ったものです。

駅東すぐが車の往来の激しい国道2号線で、道路中央は路面電車の阪神国道線跡です。昭和2年(1927)に現福島区の野田駅から東神戸駅まで開通、しかし車の増加による渋滞で、速度も低下し順次廃止、昭和50年には全面廃止に。かつて阪神電鉄は大阪・神戸間を、本線と途中の大物だいもつ(尼崎市)から分岐する西大阪線(現阪神なんば線)と、3本も路線を持っていたのです。付近が一大工場地帯で工員らの通勤用でした。

国道北、左門殿川の左門橋は、江戸初期に尼崎城を築城した戸田氏鉄うじかね(別名左門)が、神崎川の支流を改修し付いた名です。橋の南西詰めの市立佃中学校は、溝口歯車工場跡で戦時下は軍需工場でした。米軍のターゲットマップをご覧ください。詳細な地図に工場の配置図や断面図も記載されており、左の「TARGET 1634   MIZAGUCHI GEAR WORKS」には、戦艦の大砲を回転させるベアリングなどを造っている、と書かれています。綿密な調査に基づき爆撃していたのです。一方日本は「竹槍、防空頭巾、バケツリレー」で応戦していました。福島区空襲被害者、女性の証言です。「終戦が近づくと物資がなく、男は鉄兜、女は防空頭巾を配給された」、戦前女性に選挙権も無かった時代、命までも軽んじられていたのです。

米軍のターゲットマップ

佃空襲の「被爆者鎮魂之碑」

この軍需工場があったために悲惨なことが起こります。昭和20年6月26日のこと、溝口歯車工場前の簡素な防空壕に、2トン爆弾が直撃、53人が犠牲に。祖父を亡くした当時12歳の少女の手記が残ります。「想像以上に無残で声もでなかった。防空壕は跡形もなく大穴になっていた。周辺には無数の衣類の切れ端、飛び散った腕、指、足…」と、地獄図を伝えています。現場には地元の人達が建立した「被爆者鎮魂之碑」が、悲惨な出来事を伝えています。

昨年10月、大東市のある小学校で6年生を対象に、佃の空襲も含め映像を見せながら、空襲被害の講演をしました。今の小学生の祖父母は戦争体験者はほぼいなく、一方体験者が高齢で語る人が少なくなり、私に依頼があったのです。子ども達は熱心に聞き入ってくれ、終わりは沖縄の惨状を語った後、カンカラ三線で「涙そうそう」をみんなで歌いました。

次回は佃煮ゆかりの田蓑神社です。


  • facebook
  • 書籍販売
  • 大阪府歯科保険医協会
  • 大阪府保険医協同組合
  • オンライン共同購入
  • 全国保険医団体連合会
  • 保険医休業保障共済保険
  • Don't Bank On The Bomb
  • コロナ禍の近畿生活支援・情報発信プロジェクト
ページ上部へ戻る