高砂橋・成清橋と「安立」由来 西住之江を辿る
- 2017/9/15
- 先人の足跡をたどる
先人の足跡をたどる №133(住之江区) 大阪案内人 西俣 稔
前号、夏のカラー特別号で玉造界隈をご案内しましたが、住之江区に戻ります。高砂神社を後に住宅街を抜けると、北島商店街の途中に「高砂橋」の親柱がぽつんと建っています。戦前付近はまだまだ田んぼで、井路川(田を通る水路)が流れ、高砂神社へ通じていました。埋立ての時期は不明ですが、大正14年(1925)の地図には水路が記されています。親柱を残すのは「橋にお世話になった」という、地元の人々の感謝の気持ちです。商店街を抜けると高速道路の下に、せせらぎが流れています。先に紹介した、十三間堀川の大和川へ繋がる河口で、十三間川親水河川(*注)として整備されました。車の往来が激しい国道沿いに、安らぎを与えています。
国道東に「成清橋」が架かり横に碑が、「この場所にあった橋は船底の板を利用した仮橋であったため、老人や子どもが渡るのに難儀していた。そこで大正11年(1922)成山清吉という人の25回忌にあたり、遺族が千五百円(当時)を寄付して建てられた。故人を顕彰するため『成清橋』と名つけられたようである」の趣旨が刻まれています。成山氏は幾度も献身的に仮橋を補修していたのでしょう。私が見た限り碑に立ち止る人はいません。名もなき人の功績を知り、土地への愛着が広まればと、記しました。
さらに東へ進むと、レトロな洋風住宅が点在しています。この地、西住之江は昭和11年(1936)に、田地を宅地化する区画整理完成に伴い、洋風住宅街ができました。南海電車沿いの3軒並ぶ洋風住宅を観ると、白いバルコニー奥の窓が楕円形や長方形、また窓の飾りが格子風や、ダイヤ型などそれぞれ個性を引き立たせています。2年前のNHK朝ドラ「マッサン」の住居のモデルにもなりました。
南海を越えると安立商店街、町名にも残る「安立」、その由来が歴史あるのです。江戸時代からの安立村で、江戸初期(1620年頃)紀州街道のこの地で開業した医師、半井安立に由来します。大和川の付替えをした1704年までは堺と陸続きでした。安立は余りの名医で、堺も含め多くの人達が「安立先生に診てほしい」と、安立村に住み移り村落ができたと伝わります。街道ならではの古民家が残り風情ある町並みです。紀州藩の大名行列で殿様がよく通り、「上から見下ろしてはならぬ」とのお触れで、中二階しか認められない家が並んでいました。
古民家が向き合う辻を北へ行くと、小さな公園があり「安立町役場跡」碑や、「霰の松原」碑が建っています。海岸線であった当地には、大阪湾からの風による、防砂で松ノ木が並んでいました。強風で枝が霰の音のように聞こえ、こう呼ばれ「万葉集」にも綴られています。また、お夏と清十郎が再会した処と伝わります。趣旨は「南北朝の時代の1340年代、南朝の山名清十郎は貝塚水間寺で、地元のお夏と恋に落ちる。南朝、北畠顕家に仕えていた清十郎は、北朝の高師直と天王寺で合戦するが敗退する。幾日経っても帰って来ない清十郎を、天王寺まで捜し求めるお夏であったが、当地安立でやっと再会し、水間で結ばれた」というものです。歴史ある町のラブストーリーですね。
大阪市の南西果て住之江区をご案内してきました。次回からは北西果ての西淀川区です。
*親水…子どもたちが水に親しめ安全に遊べるように工夫した川