防空壕と中甚兵衛の大和川 加賀屋甚兵衛の高砂神社

先人の足跡をたどる №131(住之江区) 大阪案内人 西俣 稔

心なごむ「加賀屋新田会所跡」を大和川へ進むと、閑散とした住宅街の二本目西にコンクリートの建造物が見えます。地中から屋根の部分が出ていて通気口もあります。実は戦時下で空襲に備えて個人が造った防空壕なのです。この家主が建築関係のお仕事で、庭を掘り築いたものです。家主は優しい人で、家族だけではなく近所の人達も避難できるように、40人は入れる広さでした。工期は半年かかり完成が終戦の前日、昭和20年8月14日で、緊迫していた状況が伝わります。前に防空壕の案内で、「8月14日に完成」と説明すると、ある参加者から、笑いがおきました。私は参加者に反論することは稀ですが「ここは笑うところでは、ありません。終戦の伝達は翌日なのですから、政府は本土決戦、一億玉砕を叫んでいたのですよ」と。

個人が造った防空壕

私が協力させて頂いている、毎日新聞連載「わが町に歴史あり」取材で家主のお孫さんは「完成前に、空襲で3、4回入ったと、おじいちゃんから聞きました。屋根の上に草や土砂を乗せてカムフラージュしていました。空気穴から泥棒が入ったとも。…潰すに潰せない。戦争の勉強になるから置いといてくれ、と言われるので」と、戦争の悲惨さを語り継ぐために、残されているのです。

中甚兵衛が開削、大和川

さらに南下すると堤防に着き、上がると白鳥の群れが飛び交う大和川と、広々とした川床、堺のビル群、泉ヶ丘の山々が見渡せます。大和川の歴史を紹介します。源流が奈良桜井市の初瀬川ですが、宝永元年(1704)までは、上町台地の東部を流れていました。本流の長瀬川や平野川などは北流し、現大阪城北の寝屋川、大川へと流れていました。ところが台風や大雨の際に上町台地により水がはけず、田んぼが水浸しになったり、家屋の被害が絶えず、大和川の付替えが急務となりました。そこで河内国今米村(現東大阪市今米)の庄屋、中甚兵衛が親子二代、半世紀にわたり幕府へ陳情を繰り返し、許可を得て開削しました。重機のない時代に約180日で完成、上町台地の東部、現城東区・東成区・生野区・東大阪市等に流れる大和川水系の水流が緩和され、安全な土地になり田んぼの水害も減少、また新田開発が可能となりました。

一方、開削で多くの村が立退きを余儀なくされ、村が河川化しました。特に城南寺村(現松原市天美北)は3分の2が水没し、周辺も新大和川の氾濫で水害を被ることになります。明治30年代の新淀川の開削しかり、安全な土地ができるには、犠牲となった人々の事も忘れてはなりません。また堺港へ大量の土砂が流れ込み、港の衰退の原因となりました。

高砂神社

堤防を降りると、木々に囲われた高砂神社。加賀屋甚兵衛が開墾した北島村を守るうぶすな神として、元文二年(1737)に創建しました。当社は近所の子ども達に慕われている神社です。境内に湧き出る井戸水でドロンコ遊びをしたり、夏には「かぶと虫相撲大会なにわ場所」を開催、境内で飼育しているカブト虫を子どもが選び、取り組みます。良き大阪を広めていた月刊誌『大阪人』(2010年7月号)で、宮司の滝沢平太郎さんはこう語っています。少し長いですが、いいお話ですので引用させて頂きます。…「ゲーム(カブト虫相撲)であっても、真剣勝負。勝てば嬉しい。負けると悔しい。しかし、大きなカブト虫が必ずしも勝つわけではない。小さいのに、大きいのを、軽々と投げ飛ばす技能派もいる。最初から諦めない。勝てるよう努力することが素晴らしい。…何よりも、ともに戦うカブト虫が、何年もかかり成長したから、(子どもと)出会うことができる。カブト虫はやがて死にますが、子孫を残し、再び子ども達と巡り合う。子ども達は命の大切さを学んでくれている、と思います」(要旨)…高砂神社で遊ぶお子達は、たくましく、優しく育っていくだろうな、と思いつつ高砂神社を後にしました。

境内にある井戸、子ども達が水かけごっこで、遊ぶ

次回はカラー版にふさわしく、特別編で「玉造カトリック教会」などです。


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