贅を尽くした、文化人交流の場「加賀屋新田会所跡」
- 2017/6/15
- 先人の足跡をたどる
先人の足跡をたどる №130(住之江区) 大阪案内人 西俣 稔
住之江公園を後に南下すると、静寂な住宅街に突如と現れる広大な屋敷が「加賀屋新田会所跡」。前回記述しました加賀屋甚兵衛が、加賀屋新田開発の開発拠点として、江戸中期の宝暦四年(1754)に創建しました。大阪府内では東大阪市の鴻池新田会所跡と、八尾市の安中新田会所跡がありますが、大阪市内唯一残る貴重な会所跡です。
今回は会所跡をご案内します。……「加賀屋緑地」として大阪市が10年以上をかけて調査や補修、整備を行い、2001年に一般公開されました。敷地は4823㎡(約1500坪)ある広大な会所跡は、甚兵衛が財を惜しまず造った、屋敷と庭園が広がります。順路どおり辿りましょう。まずは一風変わった門が観られます。鏑木門と呼ばれ京都、大徳寺の瓦門を模写しアーチ型となっています。京都の相国寺の有馬頼底管長の筆による「古見堂」の額は「古きを訪ねて新しきを知る」の意味で、私の歴史案内の想いと重なります。
緑で囲われた小路の奥が書院です。会所は開発した新田を管理する所で、改帳(現在の戸籍)の作成、河川や橋、樋門、道の管理補修や、年貢の徴収などを行っていました。また文化人が集うサロンでもあり、この書院で交流が繰り広げられました。部屋は1754年の建築当時のままと伝わり、入口の額には「祥鍾福集(めでたきを集め、福を集める)」が掛けられ、玄関と八畳、六畳の部屋と続きます。玄関横の天井に使われた杉の一枚板や、梁の長い丸太、桐の透かし彫り欄間など、贅の限りを尽くした造りです。書院から居宅へ繋ぐ廊下は松の板が敷かれ、居宅には釜戸や井戸が復元されています。
居宅の隣は数寄屋風茶室「鳳鳴亭」で、大徳寺貫主の直筆(1800年代初期)の額が掲げられています。広間には茶席や水屋、珍しい高床式の舞台造が施され、文化十二年(1815)頃に造られたと伝わります。「鳳鳴亭」の名は庭園から眺めると、舞台造りの高床式の柱組で、屋根を鳥の羽に柱を脚に見立てると、鳳凰(中国で創られた孔雀に似た想像上の鳥、1万円札に描かれている)がまさに飛び立とう、としている様に見え名付けられました。
四季を彩る樹木が覆い茂る庭園は、小山が築かれ心字池(心の漢字を模写した池)を周る回遊式となっています。池には大きな鯉が泳ぎ、石橋を渡ると餌が欲しいのか、足音だけで寄ってきます。この池は昔、井路(田んぼの水路)から十三間堀川、さらに木津川、道頓堀川まで繋がり、加賀屋家などの人たちは、小舟で道頓堀五座などへ漫遊していました。想像するだけでも優雅ですね。庭園の築山に建つのが休憩所、四阿(東屋とも。壁がなく屋根、柱だけの小屋)で「明霞亭」。古は二間四方(3・6㎡)の茶室が建ち、広大の田園や、西は大阪湾から淡路島、六甲の山々、また東は生駒や金剛の山々が一望できていました。「明霞亭」は昭和20年6月の空襲で焼失し、老松の階段と礎石だけが残り四阿として再建されました。私は幾度も会所跡を案内していますが、豪商の文化の高さや粋人ぶりが、伝わってきます。過日、本連載の写真を撮りに訪れました。4年前から解除後の管理責任者であり、管内の案内をされている小野千秋さんは「264年前からある会所跡を維持管理し、案内させて頂いていることに、誇りを持ちます。加賀屋家がサロンであったように、現在も沢山の人たちが訪れて、交流の場になってほしい」と語っていました。
次回は大和川などを訪れます。
加賀屋新田会所跡
大阪市住之江区南加賀屋4ー8ー7
入園無料
10時~16時
月曜日休園