盲人教育の道開いた吉田多市と志岐与市旧府立盲学校

先人の足跡をたどる №126(住吉区) 大阪案内人 西俣 稔

若松神社を後に、あべの筋を渡れば、住吉区役所や区民センターがある広大な敷地に。大正14年(1925)の地図には、大領池が描かれ周りは一面田んぼでした。昭和18年(1943)から殿辻にあった区役所が、2008年当地に移転しました。田園地帯であった痕跡が区役所西の南北の道、複雑に通した村道とは違い果てしなく真っすぐです。5、6年前にこの区民センターで保険医協会住吉・住之江支部の会員さんに、住吉区などの歴史を講演させて頂きました。歴史案内で通るたびに懐かしく思います。

公園を出てしばらく歩くと、大阪府立大阪南視覚支援学校が。長い学校名ですが、2008年までの大阪府立盲学校。同年、視覚支援学校と名称が変わり、さらに1年前に東淀川区豊里にある、旧大阪市立盲学校が府に移管され、府立大阪北視覚支援学校となり、校名が変更されました。(以後、本校と記載)

本校の創設に尽力した、吉田多市と志岐与市の人生。その生き様は、現在の礎を築いて頂いた、多くの先人を調べ、広めている私の琴線に触れました。私が尊敬する郷土史家、三善貞司さん(『大阪保険医雑誌』にも執筆)の「大阪人物辞典」などから多く引用させて頂きます。

……吉田多市は明治4年(1871)小豆島生まれで、5歳で麻疹にかかり失明。苦難の日々を過ごす多市を親は溺愛していた。15歳の時に「大阪に行かせてください。目が不自由でも鍼や指圧の仕事をして、立派に生きている人が多い。ぜひ修行に出してください」と、「まだ早い、お前はまだ子どもだ」との親の反対を押切り、大阪新町(現西区)へ出て、針灸師、吉田久長に弟子入り。厳しい指導にも耐え、素直で熱心な多市はめきめきと腕を上げ、師匠に「わしが20年かかった技を、3年でやりよった。もう教えるものはない」と言わしめた。さらに各地で新しい技術や西洋医学などを学び、26歳で大阪に戻る。多市は師匠の願いで養子となり、患者の治療にあたり、のたうち回る患者の痛みを一針で治めたり、医者も見放した重病患者を指圧で回復させ評判となる。

さらに多市の理想は高く、「障害に負けず自立するには教育を受けて、技術を学ぶべきだ」との信念から、明治38年(1905)に「大阪盲人会」という教育機関を設立。しかし今よりはるかに厳しい、障がい者への差別や偏見が強い時代、悪戦苦闘の日々であった。休みの日の芝居小屋や、午前中の銭湯脱衣場など市内18ヵ所を借り、巡回教育を始めるも資金難で3年後に閉鎖。

 多市はこれでも屈せず、弟子入りした志岐与市という心強い同志を得て、困難を乗り越えながら、大正3年(1914)西区北堀江に「大阪盲訓院」を設立。「北堀江の民家を改築して授業を開始、集い来る院生49名、当時としては驚異的な盛観」、校史の趣旨である。二人の運動が理解され始めている証であった。9年間は月謝も取らず、二人の私費と寄付で運営していた。大正14年、天王寺区大道4丁目に移転し「(財)天王寺盲学院」となり、長きに渡る二人の功績が認められ昭和3年大阪府に移管され、「大阪府立盲学校」となる。後の昭和13年住吉区山之内に移転し、現在に至る。初代校長には志岐与市が就き、吉田多市は院主と称された。……

私が協力させて頂いている、毎日新聞「わが町にも歴史あり」取材で、2年前に記者と本校を訪れました。その際は本校への取材はせず、校門で記者へ概略を説明しただけでした。後日、記者は学校長へ会いインタビュー記事が載りました。2015年10月31日が創立100年で、新校舎完成祝いを併せた記念式典の前でした。松村高志校長は「吉田多市さんと志岐与市さんのことは、入学式や卒業式などで話しています。今度の式典では、私財を投げうって学校を開かれ、視覚障害者の教育を始められたことと、その歴史や伝統を受継いで次の100年のステップにしよう、と喋ろうと思っています」と。伝統を継承される素晴らしいお言葉です。

私は多市、与市の顔写真や胸像は知らなかったのですが、新聞のゲラで見た時に、目頭が熱くなりました。文末に松井宏員記者の名文章を紹介します。「黒い眼鏡に口ひげの二人の写真が、校長室に保管されていた。旧校舎から移って、間もなく新校舎に建つ日を待つ胸像は眼鏡をかけておらず、穏やかな笑みを浮かべていた」。……

院主の吉田多市(左)と初代校長の志岐与市(右)

次回は、あびこ観音まで辿ります。


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