津守廃寺跡・止々呂支比売命神社と古から繋がる地名

先人の足跡をたどる №125(住吉区) 大阪案内人 西俣 稔

子ども達らの夏祭りの準備(今年7月初め)

前回の正印殿跡を後に熊野街道を南下すると、墨江すみえ小学校の塀に「津守廃寺跡」の説明版が。平安時代の901年に住吉大社の神主、津守氏の氏子として創建され、小学校一帯が跡地です。本尊の薬師如来は住吉浦から出現した、霊像と言われています。明治初期の神仏分離で廃寺にされましたが、白鳳時代の瓦が出土しています。廃寺跡すぐのしょうほう寺には、日蓮の自作と伝わる大黒天があり、「住吉の大黒さん」と親しまれています。天明六年(1786)大坂城代、阿部能登守は灯籠と寺名にあやかり松を七本寄付し、それが大きくなり近隣の評判になりました。寺が建ち並ぶ熊野街道を東へ折れ、南海沢ノ町駅の踏切を渡ると、正印殿の辻が由来の町名「殿辻」です。正印殿の広大さを伝えています。

「松宝寺」寺名にふさわしく松の木が育つ

ここで付近の、往古からの町名由来です。「千躰せんたい」は当地の宿所の創建千年(千歳)を祝して、徳川家康が名付けた松栄亭があった故事によります。歳に躰の字を当てたのは、津守氏邸内の正印殿にあった正躰(神体)からと伝わります。「大領だいりょう」は住吉大社の神主大領氏の居住地によります。住吉大社に因む地名が多いですね。難読地名「遠里おり小野おの」は万葉集にも記され、奈良時代からの地名です。1704年大和川の開削で分断され堺にも遠里小野町があり、広大な地域でした。「遠里」を「おり」と読むのが謎ですが、文献上答えは見つかっていません。ここで私の推論ですが、当地はウリの産地で、「瓜生野」で「おりおの」の表記もありました。古は当て字が多く何故、その字を当てたかを考えました。うりの産地「うりおの」が原義、「おり」は「うり」の訛りで、当地の中心地である住吉大社から堺まで連なる、遠い田地(里)の風景から、遠い里を当てたのでしょう。現在普通に読んでいる「百合ひゃくあう」を何故、「ゆり」と読むか?ゆりの根が多く(百ほど)絡まる(合)様からの当て字。「百舌鳥もず」?もずは鳴き声が多彩で、「百ほど舌がある鳥」から。秋刀魚さんま?もうお分かりですね。「秋」の味覚で「刀」のように尖った「魚」。……先人の感性に感嘆します。

厳やかな「止止呂支比売命神社」別称「若松神社」

沢ノ町駅の東すぐ、あびこ筋南に鎮座するのが止々呂支比売命(トドロキヒメノミコト)神社、スサノオノミコトの妃、稲田姫を祭っています。稲田姫を「トドロキヒメ」とも呼び、付いた神社名です。「トドロキ」とは川のせせらぎ「轟く」の意味で、かつては当社に小川が流れていて付きました。箕面市にも止々呂美の地名があり、付近を流れる余野川のせせらぎから。豊中市は明治22年(1889)に新免・山ノ上・桜塚・岡町・南轟木の五村合併でできた地名です。それぞれ村名に誇りを持ち、特定の村名を採用できず、当地が古代からの豊島てしま郡(手島とも)の中心地で豊中村と命名されました。その南轟木村、今は豊中市の中心地「本町」ですが、当時は千里川の南岸でせせらぎが聞こえていたのです。止々呂支比売命神社も箕面も豊中の「トドロキ」も、江戸時代、テレビも車も工場も飛行機もなく、パチンコ店もなく!静寂で川のせせらぎが聞こえていた、のどかな風景が観えてきます。当社は承久三年(1221)後鳥羽天皇が熊野詣で訪れた際に、住吉大社神主の津守経国つねくにが、境内の松林中に松林御所を造り、行宮あんぐう(天皇行幸の仮宿)として滞在したことから、若松神社とも呼ばれています。

過日、毎日新聞連載「わが町にも歴史あり」取材で、新聞記者と当社を訪れました。拝んでいたおばさんが、私達に「なに、調べてはんのん?」「あぁ~トドロキ姫はベッピンやったんやで!」…二人で「ほんま、見てきたんですか??」とのツッコミを封印!

次回は視覚支援学校(旧盲学校)まで訪ねます。


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