収穫・願い事・安産・盗難除け 様々な信仰と、華麗広大な正印殿
- 2016/11/15
- 先人の足跡をたどる
先人の足跡をたどる №123(住吉区) 大阪案内人 西俣 稔
前回の浅沢社向いに「ニットーレコード」がありました。大正9年(1920)に日東蓄音機株式会社が設立され、蓄音機とともにレコードを発売、その収音は「道頓堀行進曲」やエンタツ・アチャコ、桂春団治の落語、浪花節、義太夫、宝塚少女歌劇など多岐にわたっていました。当時の蓄音機は90円、現在では100万円位するそうで、裕福な家庭しか買えなかったとか。NHK朝ドラ「マッサン」、「住吉酒造」モデルのウイスキー発祥の「摂津酒造」とともに、住吉は近代産業創業の地でもありました。
浅沢社横を流れる細江川を越えると大歳社です。稲の収穫の神で、大阪商人には「収穫」にあやかり集金の神様として信仰されています。境内奥にある「お愛し星社」の「おもかる石」は、まず重さ4kgほどの石を持ち上げ、重さを感じ石に願い事を唱えます。もう一度持ち上げ、最初より「軽く」感じれば願い事が叶い、「重く」感じれば叶わないとの信仰です。私も拝みましたが、願い事が無理難題だったのか?「重く~重く」感じました。「お愛し星」の由来は当初、隕石を拝んでいた、と伝わります。
続く寺が地蔵寺、まずは古い町には多くある地蔵の由来から。インドのサンスクリット(梵語)でクシティ、ガルバの意訳です。クシティは「大地」、ガルバは「胎」や「蔵」と意訳され、生命を生み出す「大(地)の母胎(蔵)」として仏教信仰の対象となり、菩薩の名になりました。地蔵寺には五大力尊堂が鎮座し、安産祈願など信仰されています。菩薩のお札を下げると盗難や紛失除けとなり、また昔、遊里の女達が主に手紙を開封されないために、封じ目に「五大力」と書く風習もありました。
熊野街道に戻ると街道ならではの老舗の和菓子屋、すぐの街道と交差するのが内環状線(長居公園通)です。1970年万博関連工事で通され順次延伸し、住之江から豊中まで通っています。古の風情ある住吉大社や熊野街道を歩いていて、車の往来が激しい内環状線を横切ると、ふと現実に戻ります。
道路南の住宅街一帯が正印殿跡で、木々で覆われた一角に「史蹟住吉行宮阯」の石碑が建っています。塀に囲われ立入禁止で中を覗くと、中央に「後村上天皇住吉行宮正印殿阯」の大きな石碑と、両脇には三つ小社が見えます。後村上天皇が1360年頃から8年間行宮していました。住之江殿とも呼ばれた正印殿とは、住吉大社の神主津守国基が、平安中期1060年邸内に創建しました。その規模や華麗さは「…庭園には和歌浦から運んだ青石を置き、唐門、車舎、宝蔵を構え、正印殿内には三十六歌仙絵巻や狩野山楽の絵等で飾った。…東西百間(約180m)、南北六十八間(約120m)の館」の意が古書に残っています。庭園も含める約1万坪(約3万3千㎡)もある広さでした。その広大さの証が町名に残ります。正印殿跡から直線で約400mも離れた、南海沢ノ町駅付近の「殿辻」は正印「殿」の辻が由来です。正印殿は住吉津や熊野街道、紀州街道に近く、大坂と堺を結ぶ要衝から、軍事的拠点でした。織田信長は石山合戦に際に泊まり、豊臣秀吉も訪れ、徳川家康は大坂冬の陣で、ここに本陣を構えました。
明治以降、正印殿は廃止され、住宅街として変貌して行きました。神功皇后が「真に住み吉し」と名付けたと、伝わる住吉。時代を超えた歴史上の人物が滞在し、神社仏閣や大社の木々、古道に囲われ、今も市民が「真に住み吉」と、暮らす街なのです。次回も熊野街道の続きです。