消えた住吉郡と、神社仏閣が散在の熊野街道を辿る

先人の足跡をたどる №122(住吉区) 大阪案内人 西俣 稔

「旧東成郡西成郡境界」碑

閻魔地蔵を後に緩やかな坂を少し上がると、住吉区東粉浜と帝塚山東の町名表示が掛かり、その境界に「旧東成郡西成郡境界」の碑が建っています。ここは住吉郡では?私も知らなかったのですが、奈良時代から続く歴史ある「住吉郡」が消えさった時期があったのです。明治29年(1896)に東成郡となりました。

昭和50年代、大阪市は「町名改正」と称して、周防すおう町、八幡町、三津寺町等を「西心斎橋」。鰻谷、畳屋町、笠屋町等を「東心斎橋」。順慶町通、塩町通等を「南船場」。空心町、大工町、壺屋町等を「東天満」、壺屋町は私が3歳から12歳まで住んでいた処です。老松町、真砂町、梅ヶ枝町等を「西天満」等、江戸時代から続く由緒ある町名を、無味乾燥な東西南北に変えました。それと同じことが明治時代にもあったのです。「住吉」が「住吉区」として復活するのは、大正14年(1925)のことです。

碑を後に阪堺電車の踏切を渡ると、南海高野線をまたぎ、小高い処にある駅が阪堺電車神ノ木駅です。神社が多い付近の神木からの駅名でしょう。駅前を通るのが熊野街道で、窪津(現天満橋南詰)から熊野三山まで通じ、平安時代から上皇や貴族、武士、庶民が多く参詣していました。街道東に「住吉一二三ひふみ公園」があります。「一二三」の意味は?文献に当たらず、あれこれ調べました。住吉町は三丁目まで?いいや二丁目まで。諦めない私、昔はあったのか?昭和51年の地図でも、二丁目まで。するとひらめいたのです。公園は住吉大社の裏、「ひふみ祝詞」と分かったのです。「一二三祝詞」とは、神霊を慰め、諸々の災いを幸いにかえる祝詞です。住吉大社横にふさわしい公園名です。

余談ですが、私が営むバー「浮世小路」でお客さんにこの話をすると、「…昭和51年の地図、見せて」と。すると…消えた町名や、今は廃線となった鉄道、合併前の銀行、無くなった映画館、スケートリンク、また工場など、「懐かしい風景が描かれている…」と食い入るように見入っていました。その時、戦後の古い地図で講演ができるのでは!と、そこでさらに前の昭和38年大阪市区分地図を入手。この年は新幹線開通の前年で、新大阪駅がまだ「予定地」となっています。また昭和45年の万博の前で、中央大通や内環状線もなく、谷町筋も拡幅前、さらに戦後18年にもかかわらず、戦後復興のたくましさが描かれています。さっそく「昭和38年の地図で鳥瞰する大阪」と題し、各文化センターで6回講座を行いました。こう広がってくるのですね。読者のみなさん、ご希望の区があれば送らせて頂きます。

熊野街道に戻り公園前の宝泉寺に等身大の十三仏が並んでいます。神ノ木駅付近の巨石を、13等分し石仏に刻んだもので、釈迦如来の他十二仏は、「干支の守り本尊」として信仰されています。地元の人達はそれぞれの干支の本尊前で、手を合わせています。

十三仏を祀る「宝泉寺」

南下し熊野街道と住吉街道と交わる角にある、古い建物が住之江味噌で有名な「池田屋本舗」、元禄年間(1700年頃)酒造業として創業し、明治初めに味噌造りを始めた老舗です。今の建物は明治25年(1892)築で、屋根には住吉大社の高燈籠も施され、街道辻に風情ある景観を添えています。

老舗の味噌屋「池田屋」

住吉大社南には末社が並び、春にはカキツバタ満開の浅沢社が鎮座、古代住吉津跡と伝わります。芸能や音曲の神で、今も日舞などの人達が提灯を奉納しています。過日、若い漫才師と思われる男性二人が長く拝んでいました。

舞踊家の提灯が吊られている「浅沢社」

様々な信仰が息づく「住吉」、幾度も案内していますが、心が和むまちです。次回はお隣の大歳社からです。


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