駅名となった「針中野」と今川の源流であった狭山池
- 2016/7/15
- 先人の足跡をたどる
先人の足跡をたどる №119(東住吉区・大阪狭山市)
駅名となった「針中野」と今川の源流であった狭山池
大阪案内人 西俣 稔
今川の平等橋を後に西へ少し歩けば曲がった村道が通り、大正3年(1914)建立の道標に、「はりみち」「でんしゃのりば」と刻まれています。駅名や町名となっている針中野(中野鍼療院)への道標です。第41代中野新吉氏が、大正3年、阪堺電軌鉄道平野支線(後の南海平野線)中野駅開設に伴い、7カ所設置し現在2つ残っています。中野鍼療院の創立は平安初期にまで遡り、弘法大師が伝授した鍼の秘術を継承していると伝わります。
中野家は代々鍼治療の向上に努め、明治末期には先祖伝来の秘方に苦心して、西洋医学を取り入れ独自の鍼法を確立しました。それが大変評判となり全国から「中野鍼まいり」と称して、大正時代には1日には500人を超える患者が殺到し、患者の便を図り待合室や宿舎を設け、道標が設置されたのです。待合室は今も残っています。中野家は大正12年(1923)大阪鉄道(近鉄南大阪線)の開通に伴い、駅建設のために所有地を提供するなど尽力され、そのお礼として「針中野駅」と命名されました。風格ある古い屋敷の南門に立つと、歴史の重みをずっしりと感じます。
先日、西除川の下流今川の源流であった、狭山池まで訪ねました。南海高野線狭山駅を降り中高野街道を歩くと、古民家が軒を並べ静寂な佇まい、ちょっとした旅気分。しばらく歩くと堤防に着き登ると、広大な狭山池が見渡せます。36㌶(甲子園球場28面分)もあります。
狭山は山に囲われた狭い土地の意味で、羽曳野丘陵と河泉丘陵の間に挟まれた、正に狭い地形に因ります。昭和62年(1987)南河内郡狭山町が、市に移行する際に埼玉県に狭山市があるために、大阪狭山市となりました。狭山池は山に囲われ雨水が溜まり易く、また南の山からの天野川と今熊川の水流を利用し、三角地帯の北側に堤を築き、巨大な水量を溜める込むことに成功しました。
築造は古く「日本書紀」「古事記」にも記されています。平成の改修に伴い学術調査が始まり、コウヤマキで造られた樋管が発掘され、年輪年代法で測定し616年の伐採と判明しました。同年は推古天皇24年で、今年が築造1400年、日本最古の溜池です。今で言うダムを飛鳥の時代に築いていたのです。驚嘆するばかりです。
狭山池は幾度も改修されています。奈良時代の高僧行基が731年に堤防嵩上げの改修をし、畔に狭山池院と尼院を建て、改修完成祈願と人夫の休憩や資材置場としても利用していました。さらに762年に堤が崩れたのを、延べ8万2千人を動員し改修、堤は築造当時から2倍の幅となりました。
440年後の鎌倉時代1202年、東大寺の復興を成し遂げた重源上人が、改修に携わります。発掘調査で重源改修の記念碑が池底から見つかり、改修の詳細が明らかになりました。樋管の老朽化などで灌漑の水が流れず困っていた摂津、河内、和泉の人達の願いで工事を実施、付近の古墳から出土した石棺を多く利用し、樋管の改修を行いました。江戸初期には茨木城城主であった片桐且元も改修しています。狭山池の用水は1704年大和川の開削で、現大阪市域は流れなくなりましたが、以前は平野郷や四天王寺まで流れ、現堺市北部、松原市、羽曳野市など広範囲に渡り潅水に利用されていました。
狭山池北にある「大阪狭山市立狭山郷土資料館」は、発掘調査で出土した樋や、護岸を補強する木製枠工、石棺、重源改修碑など貴重な遺構、資料を展示、(開館10時から16時30分、月曜休館、入館無料)。ぜひ訪ねてみて下さい。資料館を後に再び狭山池を眺めると、脈々と繋がる、大変な作業に携わった、先人達の息吹を感じ取りました。
次回は信仰の町、住吉区です。