古の風景が見えてくる深里橋から浪速区、地名の旅

先人の足跡をたどる 第111回 [浪速区]

古の風景が見えてくる深里橋から浪速区、地名の旅
大阪案内人 西俣 稔

 前回、大黒橋の次がふか橋。明治41年(1908)四ツ橋筋に市電をせつするために架設。橋名は現湊町に天保十四年(1843)から明治4年(1871)まであった遊所(花街)、「深里」に因みます。江戸時代はこの付近まで民家が建ち並び、木津川までは広大な難波村田地で、「深く広がった里(田)」の風景から付いたのでしょう。また遊所は「ゆう」ともいい、「里」に二つの意を併せたのかも知れません。難波村田地はネギの産地で、蕎麦の「鴨なんば」の語源です。

深里橋

「深里橋」さて橋名の由来は?

 保険医協会横の「湊町リバープレイス」は、江戸期は「道頓堀湊町」と呼ばれていました。当時の大坂町民がここで暮らしていた、借屋の間取図が残ります。五つの借屋が並び井戸、せっちん(トイレ)は共同ですが、二部屋で台所や押し入れ、狭いながらも庭があり、今でいう2Kでした。京間で間口約4m、奥行約6mあり約24m2ありました。現在のワンルームマンションは約15m2のものあり、160年以上も前の江戸時代よりも狭いのです。日本の住宅環境の貧困を考えさせられます。

文政十一年(1828)道頓堀湊町(現湊町1)屋敷の間取図奥行は京間五間

文政十一年(1828)道頓堀湊町(現湊町1)屋敷の間取図奥行は京間五間

 ここで保険医協会付近の町名から、古の風景を見ていきましょう。「幸町」は江戸期からの地名で、次号で記す橋名にもなっています。由来は定かではないですが、大阪湾に近く台風や洪水など水害が甚大な土地でした。特に安政元年(1854)付近は大津波に襲われ、大坂市中で五千六百人が犠牲となり、流された大量の舟が大黒橋に押し上げ、舟の山を築いていました。このような災害が多い土地であったからこそ、町の安全を願い「幸町」と名付けたのでしょう。西淀川区には「福町」があり、これも海岸線で同じ理由で付いたに違いありません。

明治18年(1885)の難波付近の地図 ①間取図の長屋跡・「深里」遊所跡。木津川まで田(里)が深く広がる②現在の大阪府保険医協会 ③道頓堀川 ④木津川

明治18年(1885)の難波付近の地図
①間取図の長屋跡・「深里」遊所跡。木津川まで田(里)が深く広がる②現在の大阪府保険医協会 ③道頓堀川 ④木津川

 桜川・稲荷・立葉・塩草・芦原町などは田地から宅地へと変わる頃、明治33年(1900)からの町名です。「桜川」は元禄十一年(1698)付近田地の灌漑のため開削され、大正3年(1914)市電敷設で埋め立てられました。千日前通の北歩道辺りが川跡です。弘化二年(1845)の古地図に「サクラ川」と描かれ(次号でその古地図掲載します)、河床は春には桜が咲き乱れていたのでしょう。「稲荷」は赤手拭稲荷神社に因みます。珍しい神社名ですが、辺りの堤防になみよけ松と呼ばれる大きな老松があり、根元に小さな稲荷社がありました。この松の枝に赤手拭をかけて祈ると、霊験が現れると広まり信者達は立派な社殿を築き、赤手拭を奉納して赤手拭稲荷神社と呼ばれました。「たて」は木津川沿いの芦が繁る(葉が立っている)風景が由来です。 「塩草」は芦(草)の間から、海水の塩が香ることに因みます。あの司馬遼太郎は現浪速区塩草で大正12年(1923)生まれました。第二次大戦で戦車隊員であった司馬は復員し、我が家へ帰り愕然としました。空襲で家は痕跡もなく、通っていた塩草尋常小学校は曲がった鉄骨が残るのみでした。司馬はこの言葉を残しています。「第一次大戦で開けた街が、第二次大戦で崩壊した」。すなわち難波村田地が第一次大戦前後、軍需工場などで都市化しましたが、逆に空襲に遭い崩壊した、というのです。見事に戦争の愚かさを突いています。「芦原町」は芦原橋からで、JR芦原橋駅北の今はなきいたち川に架かっていました。余談ですが、東京の吉原は、「あし」の音が「良しし(芦)」に通じ、縁起悪いと「悪し→良し(吉)」の好字を当てました。 今回は深里橋から南西一帯をご案内しました。橋名や町名にも、今に繋がる歴史があるのです。次回は住吉橋からです。


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