道頓堀橋・新戎橋・大黒橋から大国主神社と八阪神社を訪ねる
- 2015/10/15
- 先人の足跡をたどる
先人の足跡をたどる 第110回 [浪速区]
道頓堀橋・新戎橋・大黒橋から大国主神社と八阪神社を訪ねる
大阪案内人 西俣 稔
前回、戎橋の次が道頓堀橋。この橋は江戸時代にはなく昭和12年(1937)御堂筋の拡幅工事で架けられました。御堂筋は江戸時代から、北御堂と南御堂の門前の淡路町と博労町(ばくろうまち)を繋いだ、幅約6m南北約600mの細い筋でした。昭和初期から都市計画に卓見した関一市長が明治7年(1874)に現大阪駅ができた以降、江戸期の東西基軸の通りから将来の車社会などを見込み、南北を基軸にするために、道幅43.6mに拡幅しました。当時市民は「飛行場でもつくるんかいな!?」と驚いたそうです。ビルが高さ制限により約30mで並び、イチョウ並木を植え、大阪のメインストリートとなりました。道頓堀橋も御堂筋に沿い幅43.6mあり、大阪で一番広い橋となっています。
次が新戎橋、両岸は老舗の飲食店が軒を並べています。明治26年(1893)町の発展に伴い、旧町名の久佐衛門町と九郎右衛門町を繋ぎ架けられました。橋南に「出世地蔵尊」が祀られています。両町は元禄期(1700年頃)より花街として栄え行き交う町人たちが、出世を願い拝んでいました。しかし大阪大空襲で付近一帯は焦土と化し、地蔵の行方も不明となりました。ところが戦後数年経って地中から見つかり、手厚く祠を建て、「出世地蔵尊」として再出発。現在も多くの人達が参拝しています。過日、私は出世を「世が出る(良くなる)」との願を掛け、格差社会是正や平和な地球になるようにと、手を合わせました。
次の橋が大黒橋、戎橋が今宮戎神社への参道と同じく、南約1kmにある大国主神社への参道でした。地元では「木津の大黒さん」と親しまれ、「敷津松之宮」が正式名です。大国主神社にまつわる話を、境内に南西を望む立派な像がそびえています。現在の浪速区難波や木津、今宮、大正区の三軒家など村の開拓や、木津川を改修した木津勘助(中村勘助とも)の像です。右手に図面を握り木津川を望み、これから改修しようとする、燃えたぎる情熱が伝わります。勘助の逸話です。
…寛永十六年(1639)不作続きで大飢饉となり、村民の惨状を見かねた勘助は、奉行所に米の払下げを願い出るが聞き入れられず、ついに農民と徒党を組み、中之島の福岡藩蔵屋敷を襲い米を奪い窮民に分け与えた(襲った藩は諸説あり)。自首した勘助は当然打ち首であるが、大坂陣の戦災処理や、徳川家康を祭る川崎東照宮(現北区天満1、滝川小学校)の造営を担った功績などで、幕府内でも評価が高かった。また村民の反発も恐れ減刑となり「島流し」となった。島流し、どこへ?隠岐の島でも、奄美喜界島ではない!勘助が開発した三軒家はないか!村民の大歓迎を受当地で、万治三年(1660)75歳で天命を全うする。刑は「やらせ」で形式的なものであった。……ギスギスした現世とは違い粋な話、今の大阪を築いて頂いた勘助に感謝の気持ちです。
大国主神社から大黒橋に戻る途中に八阪神社があり、境内に目を見張る建造物があります。なんと高さ12m幅11m奥行10mの強大な獅子頭です。獅子の口が舞台で夜には目がライトで光が灯り、鼻がスピーカーになっています。昭和49年に完成しました。当社は昔から子どもの獅子舞が盛んで、架設舞台であったのを「日本一の獅子頭を!」の思いで常設舞台が造られました。みなさんぜひご参拝してみてください。大黒橋、一つの橋から道筋を辿るだけでも、先人の足跡が残っています。
次回は保険医協会近くの深里橋からです。