橋名川名にも歴史が 55も橋が架かる駒川

先人の足跡をたどる №117(東住吉区)

▼「模擬原爆碑」を後に長居公園東通の北に、阪神高速松原線が見えます。みなさん現在の地図を開いてください。松原線の西端は西成区北天下茶屋、阪堺電車今池駅の手前まで通じ、一方東端は平野区平野本町まで通じています。南海平野線廃線跡に高速が通されたのです。現JR平野駅南にあった広大な平野紡績工場へ、市内中心部からの工場労働者の便を図り、大正3年(1914)に敷かれた軌道でしたが、昭和55年地下鉄谷町線の延伸で廃線となりました。

▼田辺小学校を東へ越えると、「文化橋通」商店街の看板が、文化橋は300m程先の駒川に架かっています。昔ながらの食堂があり昭和レトロな商店街の途中、南へ折れる道はドン突きも見えないほど、果てしなく真っ直ぐです。明治時代の地図を観ると、田辺村と中野村の間は一面田んぼで、大正末期に宅地化で道が通されたため、複雑な村道ではなく直線なのです。街の変貌がよく分かります。近鉄駒川駅を越えると駒川が流れ文化橋に就きます。橋名は架設された??年、当時ハイカラや新しいものの表現として文化包丁、文化住宅など大正時代に流行った言葉。酒好きな私が洋酒「電気ブラン」は電気でしびれるように酔う、と思っていましたが、これも大正時代に新しいものに冠する言葉でした。117-1

▼さて駒川の川名ですが、付近は朝鮮半島からの渡来系に因む、地名などが多く残ります。一帯は百済からの渡来系、坂上広野麿が開発した土地で、杭(く)全(また)荘と呼ばれていました。JR東部市場駅は百済貨物駅とも呼び、高句麗の「高」を略し「くれ」が「喜連(きれ)」に、百済大橋、南百済小学校などもあります。駒川も高麗の日本語読み「こま」の当て字です。因みに東京の多摩川も「こま」の当て字です。

▼また文化橋から約1.3㌔南に鷹合(たかあい)の町名があり、酒君塚公園に「酒(さけ)君塚(きみづか)」の石碑が建っています。酒君は仁徳天皇期に朝鮮半島から渡って来た百済王の一族で、天皇に命じられ、当時日本で珍しいタカを飼い慣らし、タカ狩りを天皇に見せて喜ばせた、と伝わります。それから酒君を祖としタカの飼育職人、鷹を飼う鷹匠(たかじょう)が居住し「鷹甘(たかかい)部」と呼ばれていました。鷹合(合は当て字)地名の由来です。酒君塚に近い駒川には、酒君塚橋、鷹匠橋、鷹合橋が架かっています。117-2

▼駒川は依(よさ)羅(み)池(住吉区庭井付近)を水源として、5世紀に開削された古い川で、高麗川や巨摩川とも書かれていました。依羅池は1704年の大和川付替えでほとんどが河川化し、残りも1975年頃、府立阪南高校のグランドとして幻の池となりました。水源がなくなったので、現在は下水をろ過した処理水を流しています。

▼駒川で特筆すべき事は、南北約3.6㌔の川筋に55もの橋が架かっていることです。約65㍍間隔で、ほとんどの細い道にも架かっています。これは大正から昭和初期にかけ、田地を宅地化する土地区画整理などが新道には、新たに橋を架けました。文化橋の他にも耕整橋は耕地整理ででき、大正橋は大正時代に架け付いた橋名です。あとで訪ねる今川や支流の鳴戸川には55の橋が架かり、現在大阪市が管理する橋約818の内、約8分の一が駒川今川に架かっています。住民の利便を図った当時の耕地整理組合や、行政の方々の大変な努力を知らされます。次回は今川です。


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