天保期「大阪」と彫られた燈籠と、地元に愛される閻魔地蔵
- 2016/9/15
- 先人の足跡をたどる
先人の足跡をたどる №121(住吉区) 大阪案内人 西俣 稔
今回は住吉大社境内の珍しい燈籠の話からです。「大阪」の地名は現在の大阪城の所に、浄土真宗の八代法主蓮如が1496年、石山本願寺を建立しました。その際「(石山本願寺が)大坂トイフ在所」と記されているのが、文献上の初見です。当地は大川や寝屋川、平野川などが北や東に流れ、さらに上町台地の高台で、敵が攻めにくく選定されました。一番の高台で約25mあり、本願寺から下る大きな坂が由来です。現在も大阪城周辺は天満橋南の谷町筋や、ドーンセンター前の坂、NHKがある法円坂、松屋町筋に下る坂などが残ります。
しかし明治以降、天下の台所と言われた中之島や堂島などの諸藩蔵屋敷が廃止され、大坂は経済的に衰退していきます。そこで「坂」は「土に反える」と嫌い、盛んや、豊かになる意味がある「阜」(こざとへん)の略字である「阝」の「阪」変えました。
ところが境内北の古めかしく、「衛士勤番所」と書かれた守衛駐在所横にある、天保十一年(1840)建立の燈籠には「大阪」と刻まれています。天保八年(1837)、大飢饉で大塩平八郎が乱を起こした時代、江戸期でも社会が不安定な時には、縁起を担ぎ変えていたのです。余談ですがある講演会で質問が…「私は土偏の坂本ですが、縁起悪いのでしょうか?」「いいや、これ以上落ちません。這い上がるのみですヨ!」場内爆笑。
住吉大社前に小さな木造駅舎の阪堺電車住吉駅があります。今年の1月31日この駅からわずか約200mの路線、住吉公園駅までが廃線となりました。住吉公園駅は大正2年(1913)開業、ピークの昭和30年代には、1分間隔1日約200本の電車が運行されていましたが、最近では朝のみ平日5本の運行で、終電が午前8時24分、日本一早い終電でした。敷設60年で老朽化し、改修の費用から廃線になりました。最終の運行には狭いホームに約100人の惜しむ人が訪れ、警笛が鳴ると拍手と歓声が起きました。
住吉駅から大社北沿いの緩やかな坂を歩むと、「飛鳥への小径」の説明板があります。熊野街道と紀州街道が交わる交通の要衝、住吉津から大和川沿いを通り、飛鳥へと繋がっていました。「小径」北のマンションは壁が黒く、街の景観を大切にされています。すぐに生根神社が鎮座します。本殿は淀君の寄進で、慶長五年(1600)頃、茨木城主・片桐且元が建て、国の重要文化財に指定されています。天満宮を合祀し当社の分霊を勧請した、西成区玉出にある生根神社と区別するため、こちらを奥天神、玉出の方を上天神と呼んでいます。
生根神社の石段を下り阪堺電車の踏切を越えると、閻魔地蔵を祭る祠の家屋が建ち、世話人が常駐しています。地蔵には天文七年(1538)と彫られています。明治初期の廃仏毀釈で付近の浜辺に放置されていたのを、明治中期に地元の人々が手厚く祠を再建しました。地蔵を中心に道が六本通り(現在は七本)、六道の辻と呼ばれていました。六道とは仏教の教えで過去の業によって、生と死の分かれ目、天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道に導かれることです。地獄へ堕ちた時の救世主が閻魔地蔵です。恐ろしい形相の閻魔さんですが、様々な願いを叶えてくれると、地元の人々に崇められています。
過日、小学生の女の子二人が、何を願っているのか、手を合わせ長く拝んでいました。屋根上には二匹の猫が寝そべり、街角の微笑ましい風景に出会えました。信仰の町「住吉」まだまだ続きます。
次回は住吉郡が消え去った証の碑からです。