信仰のまち住吉を辿る 住吉大社と南海電車創設者

先人の足跡をたどる №120(住吉区) 大阪案内人 西俣 稔

今回から住吉区を訪ねます。南海電車住吉大社駅を降りると燈籠が建ち並び、阪堺電車の向こうに、鳥居を通し太鼓橋が見えます。まずは鳥居を前に明治16年頃(1883)にあったことから。……鳥居前は紀州街道で、着物を着た40歳頃の男性が一週間ほど立っていた。街道に人が通ると左の袂から小さな豆を「どうぞ」と渡す。人力車や馬が通ると右の袂から大きな豆を渡す。行き交う通行人達は「なにをしてはんねやろ?」と。……この人物こそ南海電車の創設者、松本重太郎である。会社へ帰り豆の減った数で通行人などの数が分かり、「これは紀州街道に鉄道が敷けるぞ!」と、明治18年南海の前身である阪堺鉄道を創設しました。他にも大阪財界の重鎮である藤田伝三郎、田中市兵衛、外山修造も携わっていました。当時カウントする道具がなく豆で調査していたとは!先人の知恵ですね。

住吉大社は211年に神功皇后が創建したと伝わります。全国約2300ある住吉神社の総本社で、摂津国の一の宮です。因みに宇都宮うつのみやは「一の宮」の訛りと言われています。「住吉」は神社の立地条件として、当地が「真に住み吉」が由来です。太鼓橋は反橋とも、池の向いの橋から見ると、川面に写り、眼鏡のようで眼鏡橋とも呼ばれました。慶長十一年(1606)淀殿(淀君)の寄進で、建築に長けた片桐且元が建てました。高さ3.6mあり、川端康成が小説「反橋」で「反橋は上るよりおりるほうがこはいものです。私は母に抱かれておりました」と、幼少の時に母を亡くした感傷を綴っています。文学碑は太鼓橋の本殿側南すぐに建っています。

太鼓橋、川面に写る風景から眼鏡橋とも

太鼓橋は与謝野晶子も渡っていました。明治33年(1900)堺の浜寺公園で開かれた文学会で、与謝野鉄幹と出会い、晶子の一歳下の山川登美子も同席していました。翌日住吉大社を訪れ、三人で勾配の急な太鼓橋を渡り、手を差し伸べる鉄幹に、すがりついたのは登美子で、昌子は一人で渡りました。

文学碑の近くに小さな、井原西鶴の矢数俳諧碑が建っています。延宝八年(1680)、生國魂神社で4千句詠んでいた西鶴ですが、その5倍以上、一昼夜で2万3千5百句もの俳句を詠いました。貞享元年(1684)のことです。不眠不休でも一句4秒弱、驚異的な数字です。余りの速さに記録者も記録できず、作品は残っていないとか。これは住吉大社は多くの参拝者で賑わい、著書を売るための今でいうセールスでした。

二つの碑の南には御田おんだがあり、毎年6月14日に御田植神事おたうえしんじが催されています。神職、八乙女やおとめ(神楽女)、植女うえめ稚児ちごらが石舞台に揃い、第一本宮で早苗と神水を頂き、武者、楽人がくじん、神職を先頭に御田に向かい、厳かに八乙女が田舞を舞います。

毎年6月に御田植神事が行われている、御田

毎年6月に御田植神事が行われている、御田

広告搭でもあった燈籠

広告搭でもあった燈籠

大社にはたくさんの灯籠が建ち並びます。江戸期には千以上もあったとか。明治初めの紀州街道の拡幅や、住吉公園の造営などで減りましたが、それでも現在約600あります。高いのでは、約10mのもあります。これは玩具や乾物商、材木商など様々な商人の信仰心と、テレビ、ラジオ、新聞など広告媒体がない時代の広告搭でもありました。

太鼓橋と本殿の間の参道が、NHK朝ドラ「マッサン」のロケ地です。ドラマの「住吉酒造」のモデル「摂津酒造」が大社東近くにありました。……エリーを妻として帰国したマッサン。しかしマッサンが知らないところで、婚約者がいました。住吉酒造の娘、優子です。母である酒造の社長夫人が段取りした、寄席の帰りに二人が通ります。優子がマッサンに「子どもは何人くらい欲しい?」「野球チームが作れるくらい欲しい」と。……知らないほど怖いものは無いですね!太鼓橋の手前、母の「太鼓持ち」もすんなりといかなかったようで?

次回は珍しい燈籠からです。


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