「怨親平等」平重盛の精神今も地域に、開かれた「法楽寺」
- 2016/3/15
- 先人の足跡をたどる
先人の足跡をたどる №115(東住吉区)
▼前回の山阪神社を北へ辿り、旧南田辺村の四辻に立つと道がずれて交わり、どの道も真っ直ぐ通らず見通しが悪くなっています。よそ者や不審者が入り込むと、迷うような仕掛けなのです。江戸時代の村民は自ら村を守るために、漢数字の「五」で道を通しました。カギ型やT字、袋小路です。よく歴史案内で参加者へ「ここで解散しましょか?」と言うと、「よう帰れませんがな!」とのツッコミが。
▼四辻のすぐ北に、田辺のお不動と親しまれている立派な、法楽寺が建っています。山門を突き抜け三重搭が観え、大阪有数の古刹(こさつ)だけあって境内は見所いっぱいです。まずは寺伝から、源平の時代、治承二年(1178)に平清盛の長男、平重盛が創建したと伝わります。心優しい重盛は平家だけではなく、敵の源頼朝の念持仏も安置し、敵味方問わず弔った「怨(おん)親(しん)平等」の精神が人柄を表わしています。
▼法楽寺も元亀二年(1571)頃、織田信長の焼き討ちに遭い全焼しました。のちの天正十三年(1585)、平盛家という武将が出家し、再建にかかりますが戦国時代のこと、本来の姿には戻らず、細々と寺を継いできました。延宝六年(1678)河内野中(やちゅう)寺(現羽曳野市)から来た洪善和尚が、大変な努力をされ33年の歳月をかけ、ようやく宝永八年(1711)に再建を果たしました。小松住職のお話です。「当時は寺ではなく、お坊さんにスポンサーがついていました。洪善さんは紀州雑賀の鈴木氏でした。雑賀の力で、奈良宇陀の大和松山藩の殿舎を移したのです」。その殿舎が山門と本堂です。ちなみに雑賀と言えば信長を手こずらせた、鈴木孫一が率いる鉄砲を得意する戦国時代最強の鉄砲傭兵(ようへい)集団でした。
▼境内には樹齢800年以上、高さ23m回り8mの大クスノキがそびえ、楠大明神として信仰されています。このクスノキは府内では住吉大社に次ぐ古木と言われています。クスノキに因み「くすのき文庫」が横にあり、子ども向けの本が約2万冊もあり、毎週土曜に開放され貸出もされています。また竹馬や、飛び箱などの遊具もあり、土曜には近所の子ども達の黄色い声が聞こえます。まさに法楽寺は現在の「寺子屋」なのです。クスノキの傍らに「楠の古木の作品」との説明板が、5年前に朽ち落ちた楠の枝が、あまりにも「オットセイ」に似ているので、保存されているのです。「朽ちた物も生かす」、仏の教えでしょうか。
▼他にも、高齢者のための憩いの場も設けたり、難波伝統野菜の田辺大根を栽培し広められています。西門の傍には鐘が吊られ自由に突けます。「朝7時前に突くのはご遠慮下さい」との張り紙に近所への配慮が。
▼法楽寺でこれも特筆すべきです。明治6年(1873)南田辺村含め8村が組合を結成し、法楽寺の庫裡(くり)(寺の居間)で南田辺小学校を開校し、教育に力を入れていました。平重盛の精神が明治へと繋がり、現在は子どもや高齢者など地域に開かれた寺として、継承されているのです。次回は、住吉大社まで通じる「神馬塚」からです。