汐見橋と南海汐見橋線 日吉橋と安政大津波碑

先人の足跡をたどる №113(浪速区)

▼前回、幸西橋の次が汐見橋。その前に桜川にまつわる話を。15年程前のことです。ボロボロですが愛着ある自転車を盗まれました。もう見つからないと諦めていた3ヶ月後、桜川署の警官が発見してくれました。私は感謝の手紙を桜川が記された、江戸時代の古地図を添えて送ると、若い警官から、「たかが自転車と、引き取りに来ない人が多い中、丁重なお手紙を頂きますと、職務への誇りが持てます。」と返事が届きました。この話は当時警察幹部の不祥事が続く中で、現場の警官を励ますために、毎日新聞に投稿し掲載されました。また、「桜川はあったのか!と署内で話題になっています。」と喜ばれ、交番付近の土地に愛着を持って頂きました。

▼さて本題の汐見橋です。元禄十一年(1698)の架設で、橋から大阪湾の潮の干満が見え、付いたのでしょう。ここで南海高野線(汐見橋線)の歴史です。汐見橋駅から高野山の極楽寺駅間65.1㌔までを高野線といいますが、本線は難波駅から極楽寺駅で、汐見橋駅から岸里玉出駅までは折返し運転で、支線となっています。CIMG1593

▼当線の歴史は古く、明治31年(1898)大阪高野鉄道によって大小路(おおしょうじ)駅(現堺東駅)から狭山駅まで9.1㌔からスタート。大正4年(1915)に汐見橋駅から和歌山橋本駅まで、電車運行が開始、さらに昭和7年(1932)難波駅から極楽寺駅まで直通運転となりました。当初は高野山の参拝客が多く利用していましたが、沿線の宅地化が進み通勤用となっていきます。特に汐見橋駅から岸里駅間は、戦前津守駅前に約4千人が勤める広大な大日本紡績津守工場があり、多くの通勤客が利用していました。工場は空襲で全壊し、跡地は水道施設と公園、西成高校が建っています。私は歴史案内で汐見橋線をよく利用します。1時間2本の運行で2両編成、車窓から眺めるレトロな木造駅舎、のどかな風景に参加者から「ここが大阪?」との声が。

▼次が日吉橋。橋名由来は不明で、仮説から調べていきました。付近に日吉神社があるのか?あったのか?現在の地図でも古地図でもない。豊臣秀吉の幼名「日吉」?ちょっと待った!日吉橋は江戸時代に架設、政敵の名を付けるはずがない!とすれば消去法で「幸橋」と同じく、洪水被害が絶えず、町の安泰を願い「日吉」と名付に違いないでしょう。

▼その洪水被害の碑が日吉橋すぐ、大正橋東詰に建っています。前々回少し触れました「安政大津波記念碑」です。安政元年(1854)11月4・5日大地震と大津波に遭い、大坂市中で五千六百人が犠牲となりました。そこで地元の人々が安政二年に、犠牲者の冥福と後人への戒めとして、惨事の模様を伝えるために建立。CIMG1596

▼碑文の要旨です。……大地震両川口津波記(両川口は木津川と道頓堀川の意)…五日の地震はまことに激しく、家は崩れ落ちあちらこちらから出火、やっとやんだ頃、雷のような大音響とともに大津波が襲来し、水死する者数知れず。求められても助けることもできず、船場、島之内まで津波は押し寄せた。…一四八年前の宝永四年(1707)にも大地震と津波があり、避難しようと舟に乗った者は皆水死した。だから今後地震を恐れて舟に乗ってはいけない。火の用心は最も大切だ。津波は沖から来るものではない。磯に近い海底や川底から湧いてくる。新田では泥水がふき上がる。死者の追善をかねてこの経験を伝えるから、これからもこの碑文に墨を入れて読みやすくして伝えてください。」……安政大津波からさらに162年経つ今、当時の惨状と教訓を後世まで伝えている、先人の熱い想いを、私達も後世に継承していくことが大事です。CIMG1587

▼東横堀川から道頓堀川に架かる28の橋と、周辺の歴史を案内させて頂きました。橋は対岸を繋ぐだけでなく、多く先人の想いも今に繋ぐのです。次回からは東住吉区の話です。(本稿の一部、本連載2008年3月第20回と重複します。)


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